一歩ずつ上がることに遠くが見えてくる

急に暖かくなって、春の陽気になった。
いつもの格好だと、日中は少し汗ばむ。
帰るころにはもう暗いけれど、それでも少し空が明るいような気がする。

昔の暦だと「立春」と言って、この時期はもう春のはじまりにあたる。
当時の人たちはきっと肌感覚で風や温度を感じて、季節の流れを喜んでいたのかもしれない。

日々、忙しなく生きていると、そうした小さな変化に気づかなくなるので、なるべく心に余裕をもって、細部の違いにも気づけるようになりたいものだ。

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大学の友達と久しぶりに会って、あの頃から全然変わらないなと思った。
その人は同じ学年だったけど、
自分より一つ年上でいつもいろんなことを教えてくれる。
自分も兄のように頼ることが多く、困ったときにはいつも悩み事を聞いてもらっている。

仕事がうまくいかないとか、
人からどう思われているか気になるとか、
落ち込みやすいとか、
いろいろ話して考えが整理されて、結局は「どれも気にしなければないのと同じ」であることに気づく。

人というのは不思議なもので、自分の人生についてはよくわからないくせに、他人の人生についてはよく見える。

世の中には、ただものを言いたいだけの人もいて、自分の思っていることをそのまま伝えるだけならば、誰だってできる。
それをどういう風に伝えるか、
相手に伝わるかを考えられる人は案外少ない。

相手からどう思われているか気にしたところで、相手のことを知ることはできないし、言葉のやり取りだけではわからないこともある。
大した関係性でもない人からの言葉なら、なおさら考えたって無駄だ。

そんなこと、どこを探しても載っていないけれど、彼は教えてくれる。
本当に不思議なやつだと思う。

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「人生は行き掛かり」であると養老孟司ようろうたけしは著書の中で説く。
つまりは周囲の事情で決まることも多く、自分の意志で決めているつもりでも、環境や社会の流れに沿って決めただけに過ぎないかもしれない。

人も部屋に飛び込んだ虫と一緒で、明るいほうに行き、ガラスにぶつかる。
出られないからやり直す。これを繰り返す。
とりあえずやってみて、ダメならやり直す。
意識的に選択しているようで、人もその段階(ランダム)からそれほど進化していないのであろうと述べる。

野球のことはルールすらあまりわかっていないけれど、
大谷選手がすごいことくらい私でも知っている。

二刀流という、
マンガの世界でも成し遂げられない偉業を、現実の世界で実現させた。
そのことについて、とあるコメンテーターが「大谷が活躍できたのは、二刀流をやらさせてくれる環境があったからだ」と話していた。

大谷選手に二刀流をする能力があったとしても、
球団や監督が起用してくれなければ、今のように才能を開花させることはできなかったかもしれない。

大谷選手自身が、二刀流をやらさせてくれるところを選んで、環境を変えていったと思うけど、環境が許してくれず、才能を生かすチャンスに恵まれない世界線だってあっただろう。

まあ、間違えたり理不尽な目にあったとしても、そこで腐らずに自分のできることを、これからもコツコツと続けていきたいものだ。

自分も同じ目線に立って考えてくれる友人がいなければ、
腐っていたかもしれないし、今より酷い人生を送っていたかもしれない。

あの徳川家康だって
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」と言っているように、
人生は一歩ずつ上がるごとに、遠くが見えてくるものなのであろう。












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