好きなものだけ見ていてよいのか?
ゼミの先生に「どうして勉強ってするんですか?」と素朴な疑問をぶつけたことがある。そしたら、「自分の今まで知らなかったことを学ぶ、新しい世界に触れることは、本来は楽しいことなのよ」と返された。
ゲームにしろ、スポーツにしろ、芸術にしろ、新しい戦術やスタイル、技法を習得するのは楽しい。難しさもある一方で、苦労して身につけていく過程を、僕たちはなんやかんや楽しんでいる。
勉強もきっと同じで、新しいことを知るというのは、本来楽しいことなのだろう。
でも、僕たちは学校で勉強を「競争」や「勝負」としてのものさしとして、ずっと教わってきたから、そういうのをいまいち理解できなくなってしまったんだと思う。
成績をつけられ、順位をつけられ、ランク付けされて、そういうことに息苦しさを感じてきた。
塾講師のアルバイトをしていて、生徒から「どうして勉強って役に立たないのにするの?」と聞かれることがある。
正直、その答えは僕にもまだわからない。
数学と理科が苦手で、文系の道を選んだが、じつはけっこう科学というものが好きだった。
小さい頃はよく科学博物館に連れて行ってもらっていて、ブラックホールがどのように生まれるのかとか、宇宙はどれくらい広がっているのか、生命がどのように進化を遂げてきたのか、そういうものを知るたびにとてもワクワクしていた。
だけど、学校の勉強となると全然面白いと感じない。
どれだけ点数を取れるのか、自分は学校の中でどの位置にいるのか、そういうことばかりが気がかりだった。
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じゃあ、どうして学校の勉強ってつまらないのだろう。いろいろ考えて思ったことは二つある。
一つは、積み重ねが足りないからではないかということ。
大学1年の頃は、概論ばかりで本当に授業というのものがつまらなくて仕方なかった。だから、単位さえ取れればいいやと思って、けっこうサボっていた授業もある。
それが2年生に上がると、少しずつおもしろい授業が増えてくる。
当時、関心を持っていたのは「教育学」で、今と昔では学校で重視されていることが違っていたり、海外との国際比較みたいなのが面白いと感じていた。
社会学との関連も深く、例えば、昔では教師が説教として生徒を叩くことについて特に問題はなかった。むしろ、親側からして見たら子どもを成熟した大人にしてもらう過程の一つとして当然に受けれられることであった。それが今日では、体罰となり大問題へと発展してしまう。それは社会や親の子どもに対する価値観が変化したからだ。
こんな感じで物事が複合的に重なり合ってきて、それを紐解いていくのが面白いと感じるようになった。
でも、その面白さに気づくには、やっぱりある程度の積み重ねが必要だったと思う。途中で諦めていたら、この面白さには気づけなかった。
二つ目は、繰り返しになるけど「評価」されないことが大切なんじゃないかと思う。
学校は、子どもがちゃんと社会の成員として、受け入れられるようにするために、訓練するというのが本来の存在意義だと、内田樹氏の『サル化する世界』を読んで気づいた。
普段の授業に限らず、食事や掃除、林間学校や修学旅行を通して他者と共同生活することが、学習内容に含まれているのはそのためだろう。
つまり、集団でともに成長をし、社会に帰属できる人材になっていくというのが本来の目的だと思うのだ。
だけど、現代は偏差値ごとに学校のランク付けがされて、自分が卒業する学校によって就職やその後の人生に大きな影響を与える。
そうなってくると、当然周りの人たちよりも上に行きたいから、勉強は学校の中だけに止まらず、塾や予備校など学校外でいい教育を受けなくてはいけない。それによって周りと差別化が図れ、出し抜くことができる。
でも、それが可能なのは都内の方に住んでいて、かつ教育に高い投資ができるゆとりのある家庭の子どもたちに限定されやすい。
子どもたちは最初から評価の対象にされながら学校で勉強するのだから、当然、上位層に入れない子どもは勉強が嫌になる。
そして、大学受験ともなるとその競争が学校内にとどまらず、全国の同い年の人たちと行わなくてはいけないのだから、また勉強が嫌になる。
勝負ことはなんでも、勝つことができれば楽しいが、負けた方はつまらない。そして、いったん負け癖がついてしまうと、這い上がろうとする気持ちも薄れてしまう。
高度に仕組化されている今の教育において、本当の勝者というのはよくわからない。
周りから見て高い評価を受ける子どもでも、入った学校の中でまた熾烈な競争を経験するのだから、内心は悔しさや屈辱を味わっているかもしれない。どこまでいっても自分が本当に勝ったのかわからないからだ。
このように勉強の効用が「集団」から「個人」へと重きがシフトしていったがために、僕たちは違和感を感じながら、学校で授業を受けているのではないだろうか。
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自分の好きなことだけで、生きていくというのは不可能だろう。
芸術やスポーツの分野で生計を立てている人でも、楽しいことだけで生活をしているわけではない。
不条理な経験をしたり、絶望を味わったからこそ、出せる表現があったり、スポーツマンもただの筋肉バカなのではなくて、いろんな葛藤やプレッシャーの中で、自分のできるパフォーマンスを最大限に発揮していると思う。
少し前だけど、テニスの大坂なおみ選手が、多様な人種の尊重を、試合やメディアを通して、全世界の人たちに訴えかけた。
このことは、彼女はテニスだけの人生を送ってきたわけではなく、世の中で起きている出来事や自分のアイデンティティなど、いろんなことを感じながら生きているということを教えてくれる。
そして、それは彼女に限らず、すべての人に言えることだと思う。
学校や職場だけが、その人の人生ではなくて、自分についての悩み、家族や友人とのつながり、世の中で起きていることなど、いろんなことに関心を持っている。
自分の好きなことややらなくちゃいけないことだけが、自分を取り巻いているすべてではなくて、いろんな関わりがあって自分がいる。
だからこそ、自分のことだけに関心を集中させるのではなくて、自分を取り巻いている環境や人とのつながり、自分の今まで気づいていなかったり、知らなかったことを「知る」ということは、とても大事なことなのではないかと思う。
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参考文献
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