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十分に迷える知性を

一駅隣の本屋さんがなくなってしまった。

ときどき、運動がてらに通っていたのだが、もうそれも終わりか。

寂しくなる。

まあ、今は欲しい情報なんてだいたいネットから収集できるし、わざわざ紙媒体でなくてもいいという人も多い。私も最近は本を買わなくなったし、マンガは電子で読むようになった。時代が変われば、趣味・嗜好も移り行く。本を読むこと以外にも面白いことは世の中たくさんある。だから、こうした流れは仕方がないのかなと思う。

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社会人になってからは古典作品を読むようになった。私の好きなアーティスト、”ヨルシカ”の影響だ。最新アルバム『幻燈』は古今東西の文学作品をオマージュした楽曲で構成されている。曲のタイトルもその作品のタイトルから引用されている。

最近読んだものは、
レイ・ブラッドベリの『華氏451度』


ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』


ヘミングウェイの『老人と海』


アンドレ・ジッドの『地の糧』を読んだ。


『地の糧』に関しては、ヨルシカの影響によって、約40年ぶりの復刊となった。文庫で手軽に読めるようになる前は、一冊1万円ほどしていたみたいだ。

まあ、これらの本が面白かったかと言うと、正直よくわからなかった。内容が難しくいまいち頭の中でイメージできない。

現代の小説はオチに向かって論理的に仕組まれているというか、何か筋道があって最後には伏線を回収するというものが一般的であると思う。作者がいろいろと案内してくれるから読みやすく、読んだ後も気持ちよくなれる。だけれど、先ほど紹介した作品たちは、ジブリ的とでも言えばいいのだろうか、複雑な設定はあるがそれを汲み取るのは読者側であって、作者はすべてを案内はしない。

そして、必ずしも終わりがあるわけではなく、その先もストーリーは存在する。だけど、”それを想像するのは君たち読者だよ”とでも言いたげに幕が閉じる。『華氏451度』がまさにそのような終わり方だった。

すべてを理解しないといけないと思ってしまうと、読書と言うものは苦しいものになってしまう。不思議は不思議なままだから面白い。なんでもかんでも紐解くことがすべてではないと思っている。

それぞれの作品にはテーマ性やメッセージというものが込められている。だから、私たちは考えさせられる。いや、考える機会を与えてもらっている。それをどう汲み取り、解釈するかは我々の自由であると思う。一つでも自分の心を動かすような言葉に触れることができたのなら、それは素晴らしい作品だろう。

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”読書”というものはこの先もなくなりはしないだろうけれど、人が離れていくのは避けられないことなのもかもしれない。現代はスピーディーで簡潔であることが求められる。それはエンタメにも言えたりする。ショートムービーの類や解説動画が流行るのもそういった現代的な流れの一つだと思う。

自分もその流れに乗っている一人だ。だけど、どこか不安に思うところがあるというか、この流れに抗いたいという衝動がある。

見たいもの、わかりやすいものだけを見続けるのは確かにラクだ。誰だって手軽なものでスッキリしたいと思う時がある。でも、それは思考停止の状態になっているというか、薬漬けになっていると大して変わらないのではないだろうか。

読書という行為が必ずしも我々の思考を支えてくれるわけでもなく、悩みや問題を解決してくれるわけではない。むしろ、迷いを深くすることだってある。中には誤った方へ導くものもあるかもしれない。

だけど、読書は私たちに考える機会を与えてくれる。Googleが教えてくれることや動画を見るよりも、私たちに考えさせる余白が読書にはあると思う。

自分の見たいものではないものに触れることは苦しみを伴う。だが、難しいことを理解しようとする姿勢が、苦労する営みが、私たちの知性を十分に迷うことができるようにしてくれるのではないだろうか。

私も嫌になって目を反らしたくなることがある。それは本に限らず現実的な問題にも言える。嫌になったら一度置いてみてもいい。また気が向いたら読み直せばいいと思う。そんな風に息継ぎをしながらも、自分の思考を深めていけたらいいなと思っている。

そんな意識の高いことを考えた。解釈は任せます。

2023.7.23












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