船頭多くして船山に登りそうな東京五輪

東京オリンピックの中止や延期論が日増しに熱を帯びてきた。IOCの発言も開催に強気となったり、弱腰になったりと定まらない。コロナショックが世界に与えた影響は大きい。ただ、地球上の国と人々を巻き込む一大イベントを成し遂げようとするには、あまりにもまとまりを欠いているように感じてしまうのは僕だけか。

誰得オリンピック

僕はオリンピックの運営にも、競技にも当事者ではないので、全く見ない、関わらないと決めれば、得にも損にもならない立場にいる。SNSというツールがあるので僕の意見を言うと『誰得なん?このオリンピック』と冷め切っている。

昔は純粋にオリンピックを楽しめた。感動し、応援した。鈴木大地さんがバサロ泳法で金メダルを取った時も。長野オリンピックのジャンプ団体の金メダルも。その過程をクローズアップした番組も好きだった。見えない努力と創意工夫。コーチ陣や関わる人たちとのドラマ。心を揺さぶられることで、勇気をもらえた。僕も頑張ろうと思えたからだ。

楽しみだった五輪はどこへ

今回はどんなドラマが待っているんだろうと、毎回オリンピックの開催前から僕はワクワクしていた。しかし、今回は自国開催にも関わらず、その楽しみの感情が湧かない。何か、アスリートファーストと言葉だけが上滑りしていて、もらえるお金のことしか考えてないんじゃないの?と思える運営。

半面、出て行くお金のことちゃんと考えているの?と思える未来。本当に国の発展のことを考えての開催なの。オリンピックが終わった後の事も考えているのか疑問なのだ。新国立には維持するだけでも何十億という税金を投入しなければならない。復興五輪と言っているが、本当に復興のことを考えるなら、五輪に使うお金を被災者に回すべきではないのか。

個人的に楽しみだったオリンピック。過去形表現になってしまうほどワクワク感が薄れてしまったのはなぜなのかを考えた。

SNSの発展

ズバリ、TwitterやYouTubeといったSNSの発展が大きい。オリンピックは4年に1度の競技者の祭典。テレビでしか見ることができなかった海の向こうの技と技の競い合いが、今やスマホ1台で世界とつながり、見ることができる。身近になりすぎてしまったのだ。

強いては、競技者自らTwitterで日々を発信したり、YouTubeチャンネルを開設している。日々のトレーニング風景や、現状を知ることが容易にできてしまう。以前はオリンピックが開催されなければ知れない遠い存在が、身近な存在へと変わり。見えない日々の努力が透明性を増した。

さらに、IOCなどの利権者に対し、以前は競技者が意見を伝えるのに時間がかかった。主張によっては、その利権者に届く前にもみ消されたこともあるだろう。しかし、SNSは競技者同士をつなぎ、自分たちが置かれている現象を公開できる。

よって、先日IOCが出した開催の強行姿勢を一夜にして、覆し、強行姿勢を軟化させることに役立った。この点を見ても、アスリートファーストなんてことは上部だけで、利権者たちには関係なく、進められていたことがうかがえる。

また利権者間だけで押し進められたコトと言えば、東京五輪なのに、マラソンだけ札幌とする案。IOCと開催地の東京との対話も欠如しており、運営間のまとまりを欠いた印象を持ってしまった。誰のための祭典なのかは、主催者すらもはやどうでもいいのかもしれない。お金さえ入れば、ヨシと決着するのだろう。

今までは隠れていた部分がSNSでオープンになり、対話なく、利権者だけで進んでいく祭典に興味が持てなくなった。だから、ワクワク感がどんどん薄れているのだ。

アスリートの方々には申し訳ないが、僕はもうオリンピックは時代遅れの祭典と思っている。ただ、今回の東京五輪は乗りかけた船。船頭が多過ぎて、目的地へちゃんと到達するか心配ではある。

ここは一度冷静になるためにも、延期が良いと思う。コロナショックの規模は全世界に及ぶ。対話し、意思疎通を図れば、きっと納得と協力は得られると考える。

うやむやのまま、沈没だけは避けてほしいと願う。

それにしても、SNSの影響力は強烈と、改めて思い知らされた。日々使い続けることは怠らないようにする。アスリートたちが己の肉体を鍛えるかのように。







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