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本当の意味での「多文化共生」とは。

先日、大学の授業で日本の「多文化共生」に関して留学生と話す機会があった。


授業で取り上げられた文献「An interactive perspective for understanding minorities and education in Japan (Okano, K. H. & Tsuneyoshi, R. 2011)」によると、日本において「多文化教育」を指す言葉は大きく3つに分けられるという。

① International understanding education(国際理解教育)
② Human rights education(人権教育)
③ Multiculturalism(多文化主義)/多文化教育/多文化共生

①は日本と他国間の理解を促すための内容で、例えば他国の文化を紹介したり、海外のゲストの方を招くなどが該当する。この文脈では、あくまでも「日本ー海外」を二項対立的に捉え、日本の中の多様性には目が向けられていない。

②はいわゆる「マイノリティ」の立場に置かれてきた人々による、ボトムアップの運動に由来し、同和教育、解放教育、民族教育などが含まれる。③は学術的な文脈で発展し、近年は学校やNGOなどの各種団体において、日本における多様性について議論する際に用いられる。


これらの議論を踏まえ、次の疑問について話し合うことになった。

グローバル化は均質化の影響をもたらすと考えられているが、その弊害を防ぐため、多様性や各国の文化を祝うイベントが(学校内外で)行われている。しかし、こうしたイベントは本当に文化の多様性を描写することができているか?

私のグループ(ベトナム、イギリス、韓国、中国からの留学生)では、次のような意見がでた。

そう思わない。以前「多文化共生」を謳うイベントに参加したことがあるが、そのほとんどが私たちの文化を日本人に紹介する内容であり、それ以上のトピックについて議論する機会はなかった。
そうしたイベントの韓国ブースに行くと、全てがK-popのこと。「韓国=K-pop」というステレオタイプがすごい。
日本で「外国」というと「=欧米」というイメージ。その他の国のこと、特に他のアジアの国々については全くと言って良いほど知られていない。
日本人は「海外事情についてよく知っている人/知らない人」で二分されており、知らない人とは何を話して良いか分からなくなる。
知っている人とは、文化の話を超えて、政治の話などもっと深いトピックについて対等に議論することができる。
(知らない人に関して)
一度、イギリス人って英語を話すの?と聞かれたことがある。イギリス出身というと「アメリカ出身じゃないのか」と残念そうな顔をされたことも。/韓国人ってみんな日本語も話せるんだよね!と言われたことがある。
日本で「外国人でいること」って思ったより大変...

そのグループにいた日本人は私が唯一で、残念ながら全くその通りだと、恥ずかしさすら覚えた。


先ほどの3つの例でいうと、少なくとも私の経験では①の「国際理解教育」が中心で、たまに欧米からきたALTの先生が自国の文化について話してくれるといった程度であった。特に今住んでいる大阪に比べると、地方の出身であり、日本人ばかりの同質性の高い環境であったから、幼い頃「日本は多民族国家なんだ」と感じることはなかった。

大学から大阪に出てきて、デンマークへ留学したことで、少しだけ以前よりもより広い視野から多様性について考えられるようになった。

日本に帰ってきた今も、デンマーク語の授業を週に1度受けているが、私にとってその授業は「多文化」を学ぶ良い機会となっている。

授業では、デンマークの食べ物や文化がどうこうというよりも、デンマーク語でデンマーク社会(社会問題、労働市場、教育など)に関する文献や資料を読んで、それを元に議論する。その際必ず「では日本はどうか?」ということまで話し合う。

そこでやっと日本の姿を客観的に見ることができる。「デンマーク」というフィルターを通して「日本」を見るようなイメージだ。

これこそ本当の意味での「多文化理解」なのではないかと思う。もちろん導入段階(例えば小学校の低学年)では、まずは前提となる各国の文化や背景を知る意味で、①のような「国際理解教育」もとても大切だと思う。しかし、そこで終わってはあまりにも表面的すぎる。

留学生も言っていたように、彼ら彼女の多くは「自国の文化を知ってもらいたい」と思って来ているわけではなく、それぞれの視点を持って、対等に互いの考えを議論したいと思っている。相対性があるからこそ、相手のことも、自分のことも真に理解できる。多様性を知り、受け入れることができる。こうしたプロセスを通して徐々に「多文化共生」が実現するのではないだろうか。


日本はもはや「単一民族国家」ではない。「日本ー海外」といった二項対立でもなく、日本に住む外国人の中にも多様性があって、日本人の中でももちろん多様性があって。一言では描ききれない複雑な多様性をもった「多民族国家」である。

それを前提に子供達への教育、そして私たち自身の意識や行動を変えて行く必要があると感じる機会であった。

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