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オンラインで坐禅をする世界

オンラインで坐禅をするってイメージできるでしょうか...。

世界のオンライン化がどんどん進んでいる。「究極の何もしない」を味わうみなと坐禅も、Zoomを使ってオンライン開催を2回行った。今思えば、vol.1開催時はまだまだ社会がオンラインにも外出自粛が続く日々にも今ほど慣れていなくて、新しい世界が始まったようなまるでSFみたいな空気感だった。vol.2では「Zoom疲れ」という言葉が出てくるぐらい、一部ではすっかりオンラインが日常化していた。"オンライン体力"があると思っていたわたしも、ようやくオンライン疲れの波に追いついた感じ...。疲れますね、オンラインばかりすると。

オンライン疲れになる理由はいろいろ言われているけど、つまりはリアルコミュニケーションで普段使わない筋力を使うからだ。それでも移動時間を省けたり、画面ごしだから関係性がフラットになる感覚がいいところ。そういえばソーシャル・ネットワーキング・サービスが生まれたときも、最初「SNS疲れ」というのがあったな。新しいことが生まれると、人類はとりあえず疲れるらしい。


オンライン坐禅の心構え2つ

みなと坐禅では「Zoom疲れ」をなるべく起こさないよう、こーさんのアドバイスを参考に、また、坐禅会を一緒に作ってくれる友人、うのゆさん&しのさんの言葉たちも載せながら、Zoom向け「ゆるい心構え」を追記していく。

その1:坐る場所に「坐禅の場所」と認定してあげる。

【こーさん(坐禅案内人)の言葉】
Zoomだと同じ場を共有できていない。それはどうすればいいか。自分の場所を安定させるのが大事。結界を作る、ここはこれから坐禅をする場所ですと認定する。いつもいる場所と違う場所だと認定があって、初めてZoom上でつながりが生まれる。みなさんが坐っているその場所が安定しているかが大事。ここに坐っていてよいかが、改めて問われる。たぶん慣れてくれば自然とそうなっていく。そこの場所を坐禅の場と認定すれば、Zoomであってもそれほど難しくなく坐禅ができる。自分のその場所がそれでいいかどうか認定することが大事、これでよしとすることが大事。

Zoom vol.1のとき、わたしたちは新しいことへのチャレンジと久しぶりにみんなで坐れるわくわくがあった。友人たちは、こーさんに言われる前から「坐禅の場所作り」をしていて、こーさんの言葉を借りると「いいねぇ」(こーさんの口癖)と思った。

【しのさん(坐禅をともに作ってくれる友人)の言葉】
Zoomを話すときはこの部屋でやっています。後ろに小浜の馬頭観音さんを貼っているのですが、見えますかね?お寺にすわってるかんじでいいじゃーんと思いながら。早く座りたいです(この後、しのさん、お香も用意する...)

【ゆうこさん(坐禅をともに作ってくれる友人)の言葉】
初めてなのでわくわくするかんじ。(会社のZoom会議とは違って)坐禅は和室でやっています。(自宅の)和室でZoomをやるのは初めてなので、ちょっと自分なりにしつらえて、お花を飾ったり、お香を焚いたりしました。

わたしはお香を持っていないから、いつもはアロマを焚いて、床をかるーく拭いている。それだけでもなんとなく空気が澄み、神聖な場所になったような気持ちになる。アロマはリラックス系のものがいい。

その2:いつでもミュート・ビデオ停止・退出していい。

【こーさんの言葉】
いつやめてもいい。揺れが大きいと耐えられなくなることがある。周りに助けてもらえない。ざわつきが起こるとなかなか静まらないかもしれない。自分の部屋の空間にあるもので、それに揺らされるのが出てくる。そういう意味で我慢しない、やめっちゃっていい。画面から外れてもいいし、音声はミュートにしてもいい、ビデオを停止してもいい、万が一でも退席してもいい。いつでも退席できるという前提の中で、ちょっと続けてみようかな、それでも続けてみようかなというのがたぶんいいと思う。

人は思っている以上に場所からの影響を受けやすい。そのときの「自分の状況」に「場所の影響」が掛け合わさると思いもよらぬ揺れが出てくることもある。もし坐禅を続けられなくなったら、潔くやめてもいい。何度も言うように、みなと坐禅は無理をしないのが大事。修行の坐禅ではない。やめてみて、気が向いたらまた一緒に坐ったらいい。リアルでもオンラインでも「やめていい」は変わらない。もし坐禅をやめてみたら、そのことについてシェアをしてほしい。やめたくなった理由も教えてくれると、こーさんは目を輝かせて耳を傾けると思う。笑。

【こーさんの言葉】
いつやめてもいいという前提は、やりたいから坐禅をやっているというのがここにあるわけですよね。Zoomの場合は、1時間やってるからいつやめてもいいよみたいな坐禅もいいよね。坐ってるかどうかもわかんないから、楽じゃないですか、抜けられるわけですから。

オンラインの世界がもっと日常的になると、たとえば坐禅会に足を運ばなくても、もっと言っちゃえばお寺に行かなくても、自分がいる場所からいつでもオンラインごしにつながって坐禅する世界が、当たり前になるかもしれない。さらにいえばオンラインでつなげなくても、つながってると思って坐禅しちゃえばいい...。もし気の向くまま気がすむまで坐禅をするひとが増えたら、今より少し世界の緊張感がゆるんで調和が進むかもしれない(すごい大きいこと言った)。

ミュートがもたらす影響

たとえ場所作りをしても、みんなと同じ場にいないと静寂が寂しいと思うときもある。みなと坐禅Zoom vol.2で、いつもつながりを感じるしのさんが、珍しく「宇宙にひとりみたいな気持ちになった」と言ってたのが印象的だった。

【しのさんの言葉】
電気を消して坐って、しばらくは大丈夫だったけど、宇宙にひとりみたいな気持ちになって。こーさんもういい、もういいよ〜って思って今回最後までもたなかった。はやく終わんないかなってずっと思って、これ初めての経験だった。そのぐらい静かすぎちゃって。もしかしたら坐禅ってこういう世界を求めているのかもしれないけど寂しい。

些細な変化も感じ取るしのさんだからこその感じ方だと思った。このとき、確証されていないしできないけれども、ミュートがきっかけかもしれないと話題があがった。この同じ回で対照的に、うのゆさんはつながりを感じたと言っていたから、ミュートにすることでより一層「自分の状況」と「場所の影響」の違いが出たのかもしれない。それも坐禅の面白いところだ。

【ゆうこさんの言葉】
初めて会う方もいらっしゃるんですけど、今日はすごく実はみんなとつながってる感がありました。全然孤独じゃなかったです。

ちなみに、しのさんの「はやく終わんないかな」という感覚は珍しくない。自分が坐りたいと思う時間と、相手が用意した坐る時間にズレがあると、誰でも少しはよぎるんじゃないかなと思う。それを素直に言える環境がみなと坐禅にはあるから「ひとりみたいな気持ち」のままでは終わらない。

リアルかオンラインかではなく

たとえコロナが収束(もしくは終息)しても、世間のオンライン開催は存在し続けると思うし、より進化するだろう。そして今後は、場所の選択肢に「オンライン」が追加されて、イベントや会議内容によってリアルかオンラインかを選べる時代が来る。

【こーさんの言葉】
リアルの坐禅とオンラインの坐禅を比べなくていいと思っていて、毎回毎回より面白い。私は、こういう場は慣れの一言につきると思っていて、みなさんいろんなところに参加したらいいよなと思っています。その土台を早めにつくったらいいと思っていて、いろんな新しい発想が生まれるんじゃないかなと。坐禅もちょっと違う印象を抱く部分が出てくるんだろうなと期待しています。

みなと坐禅は、毎回場所を変えて開催している。今後は流れ着く港に「オンライン」も追加していくと思う。そして、リアルとオンラインで比較するのではなく「今日の坐禅はどんな感じ?」と純粋に感じられたらいい。

Zoom坐禅をして思ったのは、オンラインであってもリアルであっても、こーさんの坐禅会に参加すると、人はだいたいゆるんでどこかちょっと無防備になる。呼吸も深くなっている。ゆるんでちょっと自己開示しちゃう。自己開示しちゃうと(あらゆる)つながりが生まれやすくなる。つながりを意識できるようになったとき、循環が生まれる。坐禅をするひとが増えたら、今より少し世界の緊張感がゆるんで調和が進むかもしれない(また大きいこと言った)。

【こーさんの言葉】
頭がとっちらかっててもいい。その事実を否定しなければいい。自分に起こったことに気づいていて、ある意味しょうがない部分があるよなとひとつの納得みたいなものによって自分も許せて、人も許せてという方向性に行った方がゆるむ。それをはかるのには呼吸だったりする。自分の呼吸がそのときどきでどういう感じなのかを確かめる。人間は、確かめると深くしたくなるもの。いまはコロナで深呼吸すらできない状況ですからね。みんなマスクして。外から入ってこないようにするとかそんなの無理。入ったり出たりするのは当たり前で、そうじゃないと循環しないから。閉塞感みたいなものが膨らまないように。


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