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カントの『感性』から、社会学の『感性』  ーー学習グループでの気づき,触発を受けること

通信制大学で学芸員を目指している方のメンバーシップに参加させてもらって、よく「考えるきっかけ」をもらいます。

通信制大学って「けっこう使える制度なんじゃないか」「デメリットもあるけどどうするのが良いのだろう」ということを考え、いろんな人の書いてる体験談などをあさっていた頃から、「孤独な学びになるので学習グループに参加した方が良い」というアドバイスはよく目にしていました。

今、僕もいくつか参加させてもらっており、中には近況報告的な投稿がほとんどだったり、たまにSNSの炎上(?)のような状態になったりするグループもありますが、「考えるきっかけ」をもらえるような場所があるのは本当にありがたいなと感じます。僕が呼びかけているグループも、そういう「きっかけ」を交換し合える場にできればなと思ったりもします。(最近、書けてなくて、少し人が集まりかけてくれてるのに何もアクションできてないですが😓)

今回は、そんなグループでの触発を受けて、考えたことをちょっとまとめてみるようなものが書けたらなと思います。

カントの「感性」に興味が湧きました

今年度、星槎大学というところの「公共哲学」という科目を受講しています。じつのところの動機は、「哲学って、『役に立たない』『科学的じゃない』とか言われてるけど、どんなことをする学問なんだろう?」というものでした。しかも、昔の偉人が唱えたものを理解し覚えるということは好きでなく、「哲学概論」を避けてこちらを選びました。

そんな話をメンバーシップに書き込んだとき、「シュトルム‐ウント‐ドラング(疾風怒濤)」という文学運動のことを教えてもらいました。その時のメインの話題ではなかったのですが。

作家であるゲーテらの文学運動なので哲学史の動きとは違うのかもしれませんが、啓蒙主義の哲学者らが理性(推論能力)や悟性(理解力)を優位なものとしていたのに対して、「感性が大事!」という主張を含んでいた活動だったそうです。

その話を聞いてはじめて、「カントの哲学の内容」に興味を持ちました。特に「感性」という考え方に。

どうも、僕には傾向として、ひとが役に立たないと言っている、誰かに劣ったものとされているものに、「本当にそうなのか?」という関心が湧くところがあるようです。

論文検索で先行研究を探してみた

哲学科などでは、ニュアンスの違いなどに惑わされず理解するために「原文を読み込め!」という指導というかセオリーがあるそうなんですが、語学苦手な僕が古いドイツ語など読めるわけがなく、いつもレポートでやってるようにGoogleスカラーで摘み読みしました。

ただ、僕は「カント哲学を『正しく』理解したい」などと考えているわけでなく、「自分なりの問いに自分なりに考えを出したい。納得したい」というのが、僕の考える学びというものなので、ここで書いていくことは、あくまで僕の解釈です(僕の書くものはほとんどそうですが)。

なので、『正しい』解釈でも理解でもないのはご承知いただければと思います。

なお、カント哲学でいう感性がどういうものかの参考にしたのは、白石裕巳さんという方が1988年に出された論文と、長島隆さんの2015年のものです。なれない分野の論文は、ほんとに読み難いので、社会学としての「感性」を考察した倉橋重史さんのものもみています(これは1998年)。

哲学研究の中では語り尽くされたテーマなのか、少し古いものしか見つけられませんでした。

悟性が優位? 感性が大事? ーーカントさん、スミマセン

最初は、「どうして、カントは『感性』より『悟性』を優位と考えたのだろう?」ということを考えていましたが、上に書いた参考文献を読むうちに、「別にどっちが優位とも大事とも言ってないような、、、そもそもカントの言う『感性』と文学運動や今日常で使ってる『感性』って違ってない?」と思うようになりました。

白石さんのものを見てみると、次のようにありました。

“しかしながら,この局面においてカントは,先の場合とは逆に悟性優位の方向でこの対立を止揚して行く。かの有名な「概念なき直観は盲目である」(A51=B75)とい う言葉もまた,そのテーゼを言い表わすものといえるだろう。“

白石(1988)p14、※太字は筆者

参考文献には、どちらが優位とか上位下位とかいうような話題が書かれているのは、この部分だけでした。ちなみに、「先の場合」と言うのは、

“対象の存在に関わる感性の条件が悟性の条件に先行することを確言し(A16=B30),思惟は飽くまで与えられうる存在者についての思惟でなければ認識とはならないことを強調している。“

白石(1988)p14

のことです。ようは「まず物を感じないと、その物について考えられないよね」と言うことです。

どちらの“場合“でも、どちらが優位という話ではなく、カントは「とりあえず『感性』と『悟性』っていうのを考えてみたけど、別々に機能させれるものじゃないからね」ということを言っているように思います。

他の参考文献においても、カントはどちらかというと「感性」と「悟性」は対等なものと考えていたようですが、ゲーテらが文学運動で反発したくなったことを考えると、当時の啓蒙主義の人たちには「そういう雰囲気」があったのかもしれません。ただ、何か、すれ違いのようなものが起きている気がします。

(というか、僕が「カントは悟性を優位なものとしていた」と思っていたのは、巻き込み事故だったっぽいです。実は、このnoteに文字として起こしているときに気付きました😅)

社会学の「感性」、日常会話での「感性」

「感性」の意味の捉え方や使われ方が違うんじゃないか、と考えたのは、倉橋さんの論文を読ませてもらったからでした。

倉橋さんは、こまかくいうと芸術社会学という分野で、芸術が社会のなかでどういった位置づけにあるのか、社会にどう影響しているのか、といったことを研究されている方です。

参考にさせてもらった論文も、社会のなかで「感性」がどういう存在なのかを考えていくために、まず他の分野でどう定義されているか比較して考えるという“基礎的な作業“を行い、まとめたものとなっています。

(比較するというのは、学ぶこと、考えることの“基礎“となることです。)

倉橋さんは、広辞苑から哲学事典、心理学辞典での「感性」の定義をまとめて比較したうえで、日常での使われ方においては、「感性に訴えかける」「感性がつたわってくる」という表現から、

“そこに個から他者へのコミュニケーションの存在,共同性,共通理解が前提になっていることが推測できる。“

倉橋(1988)p48

と指摘されています。

倉橋さんが、芸術をテーマに社会学をしている人だからというのもあるとは思いますが、ゲーテらが文学運動で「大事!」と言っているのは、こっちの「感性」じゃないかと感じます。僕の思う「感性」もこちらの方が近い。

比較し考えたうえで、

感性はたしかに個別的であるが,感性は共通面を有する。

倉橋(1988)p53

と、倉橋さんは「社会学での『感性』」を設定しています。

考えるための道具、その中身を考える

ここからは、社会学において使う「感性」という言葉(概念)に注目した話になります。いっても、カントのいう「感性」より、社会学でいう「感性」が正しいという話でもありません。

どちらの「感性」も目的を持って作られた概念、考えるための道具です。

その道具を社会学の分野で使うために、改めて深く考えてみたい、こう考えてみた、という話になります。

 ーー倉橋さんのあげた特徴に「能動性」を加えたい

倉橋さんは、感性に関して、「個別性と共通性」「固定的な面と流動・成長的な面」「連続性と非連続性」「伝達可能なものと伝達不可能なもの」、それぞれ両方があるとしました。同じものを見て感動する、前に見た時には何も思わなかったことに感動するようになる、ということがあるからです。

ここに、倉橋さんは直接には言及されてませんでしたが、僕はもう一つ気になるところがありました。加えるべきと考える点があるともいえます。

「カントの感性」について書かれた参考文献では、感性は個別性、悟性が普遍性と設定されています。とくに、長島さんの論文の方には、感性は受動的・受容性、悟性は能動的・自立性という対比が多くみられます。

くどくなりますが、カントは、彼の哲学においてそう設定していたという話ではあります。ただ、社会学として観察したり考えたりする場合にまで、「受動的なもののはず」「受動的なものなのだから」という考えにしばられると、見落とすものが生じてしまう気がするのです。

 ーー「感性」が伝わるとき

たとえば、美術館や博物館にいったとしても、関心のない展示物には気づきもしない、ということがあります。館内をぐるりと回ったのなら、当然、視界には入っていても。また、絵そのものは見ていても、「ここの色使いが美しい」と感動する人もいれば、どの部分の色が違うのかも感じない人もいます。

「感性が豊か」という表現もありますが、これは感性という名の「能力」の強弱なのでしょうか。

また、瀬名秀明さんの「八月の博物館」という小説に、こんなシーン(セリフ)がでてきます(哲学やら社会学と話してきて、急に物語を引き合いに出してアレなんですが)。

“  学校の授業が面白くない。本を読んでも映画を観ても楽しくない。ミュージアムに来ても興味が持てない……。でもね、それはその人の心が曇っているからじゃない。見方がわからないのさ。どうやって面白がればいいのか、どうやって興味を持てばいいのか、わからないんだ。ミュージアムはいままで、そういった人たちに不親切だった。だから、考えたのさ」“

瀬名秀明(2013)「八月の博物館」

“ そして気づいたんだ。友達や家族と一緒に見ているときが、やっぱり一番楽しいってね。好きな人と一緒に、感想を話し合いながら、ときにはカフェで休んだり、ミュージアムショップで買い物したりしながら、くつろいだ気分で見て回るのが一番だってね。 “

瀬名秀明(2013)「八月の博物館」

面白さを感じなかった人が、大好きな人につられて、見ようとするから、その面白さが見えてくる。ということは実際にあると思います。たとえ、最初は「つまらない‥」という感想であっても、面白がっている“好きな人“と一緒にまわるうちにハマってしまう、ということも。

それは、感性という「能力のようなもの」が芽生えるのでなく、そこに興味が湧いて、見ようとしたから見えてくる。

「感性」には、言葉や理屈では伝えられない側面があったり、逆に、なぜか伝わっていくこともあるのは、感性の「能動的な部分」が働くかどうかに鍵があるような気がするのです。“好きな人“につられて、見ようとするから見えてくる。見えると面白くなってくる。それを、ほかの人から見ると、感性が伝わっていくように見えるのではないでしょうか。

余談であり、いちばん書きたかったであり

ちなみに、社会学であれば、ここからテキストマイニングなどの手法で普遍性(実際に皆がそのように使っているか)を検証したり、博物館や美術館のスタッフのように感性を伝える仕事にある人へのインタビューなどを行い、定義そのものを再検討したりします。「思い込み」を仮説にまで深め、また仮説を検証する方法を考えて、研究を進めます。

哲学であれば、、、どうなんだろう? 結局、僕にはまだ「哲学をするとはどういうことか」については自分なりの答えも出てないのですが、哲学的対話や議論などをつうじて思考を深めていったりするのかな、っと思っています。それはそれで面白そうかなと。

カント研究においても、「感性」には「構想力」という概念も含まれ、ここで書いたようなことも説明できるのかもしれません。原典を読み込むというのも、読むことで、昔の哲人と「対話する」ということなのかもしれません。

それぞれ面白そうと思います。

でも、僕がいま学びたいメインテーマは、ひとがその人の好奇心に従って「学問」や「学ぶ」ということが、社会にとってどのような意味があるのか、どのような影響をもつのかということでして。

なので、感性については、僕はこの「思い込み」どまりです。

ただ、それでも、公共哲学の科目やメンバーシップでの会話をきっかけに、「悟性(概念)」でする学びだけでなく、「感性」をやり取りする学びもあるなと思い出させてもらった気がします。(勝手にですが。)


これからも、半分は独学で、半分は学習グループなどで刺激をもらいながら、自分なりの「学問」を楽しめたらなと思っています。そして、願わくば、この「感性の共通面」への気づきが、何か「学問を楽しむ」ということを共有して行きたいという目標(?)に、いつか活かせればいいななんて思います。



引用・参考文献

・白石裕巳(1988)「 カントの「感性」についての教説―時空論の根底にあるも の」 哲学論叢 , 15: 13-26
・長島隆(2015)「カントと知的直観 ―カント「純粋理性批判」超越 論的感性論の分析から―」,東洋大学大学院紀要,52:167-190
・倉橋重史(1998)「 感性について」佛大社会学,23:42-65

・瀬名秀明(2013)「八月の博物館」新潮社
 ※「八月の博物館」は、2003年に角川文庫でも出ています。
  図書館で探すならこちらが多いかも



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