人生を変えたLucio Fontanaという芸術家との出会い

 私は、美術館に行くのが好きだ。
私自身は芸術的な製作は全くしないが、草間彌生が「水玉」に、三木富雄が「耳」に取り憑かれたように、何か特定の表現やモチーフに魅入られた人の作品を見ると、その人生の使い方や作品の迫力に心を動かされる。

 美術館に行く時はメモ帳を片手に、一つの展示を2時間から4時間かけて周る。美術史や技法などあらゆる芸術に関することについて詳しくない素人だが、自分なりに想像したり解釈したりしながら周るのが楽しい。作品を見て、自分がどう感じるかというのを把握することは、作品をある種の鏡として作用させ、自分を知ることにもなると思う。(もちろん美術館にいるハイセンス?な俺カッケーというナルシズムがないわけではない。)

Lucio Fontanaとの出会い

 そんな体験の中で、私の心に住みついて離れず、ことあるごとに脳裏に浮かぶ芸術家にLucio Fontana(ルチオ・フォンタナ)がいる。今日はそのことについて書こうと思う。

 ある絵画の美術展だった。私はいつも通り、一つ一つの作品をじっくりと鑑賞していた。一つの作品を鑑賞するときは、まず遠くから作品の全体を把握し、近づいて細部を観察し、その後あれこれとモチーフやストーリーや構図や色彩や技法について"自分で"考え、作品の解説を読んで、最後にもう一度遠くから全体を把握するという過程を踏む。そうやって、二次元に描かれた何かに、何らかの感情や意図や意味や物語を見いだそうと必死になるのである。

 そうして観続けて、展示のほぼ終盤に差し掛かり2時間以上が経った時に、Lucio Fontanaの作品に出会った。今でも覚えているが、一面緑色に塗られたキャンバスが、斜めに三本鋭く切り裂かれている作品だった。シンプルで、ミニマルで、なんだったら「私にもできる」と言えてしまいそうな作品だが、それを見た時、頭を千枚通しで貫かれたような衝撃があった。(以下の動画の4:11秒頃からの作品が近いが、やはり切り裂かれた部分は実物を見ないと雰囲気がわからない。)



 その美術展に限らず、これまで必死に絵画を睨み付けて、絵画から得られる感情や絵画の意図や物語を見いだそうとしてきた。そうしている中で、実像と似像(似せてつくった像や絵)との識別の境界がなくなっていた。ただ二次元表面に赤やオレンジや黄色で塗られているものを、リンゴだと認識することに全く違和感も疑いも感じなくなっていた。しかしそれは、人の記号を理解する力、つまり抽象を理解する力を利用して画家が仕掛けた二次元上のillusionでしかないという現実を、Lucio Fontanaの切り裂かれたキャンバスが突然、暴力的に突きつけてきたのだ。それまで見てきた絵画に対する強烈な否定のようにも思えた。その作品が、シンプルで、ミニマルで、私にもできそうだからこそ、そのメッセージの威力は大きかった。何か夢とも気づかない夢から急に醒されたような、そんな感覚だった。

※絵画表現を侮蔑するつもりは一切ありません。そのことを下の追記に書きました。

私たちが無意識に受け入れているもの

 私(私たち)は普段から、特定のフォーマットを採用したり、プラットフォームやシステムの上に乗っかっていたりすることを、ごく自然に受け入れるし、それをリアルだと思うことができる。そのフォーマットやプラットフォームが無言で強要する手段や価値基準やルールを、空気のように自然に、疑うことなく受け入れる。発信側であろうが受信側であろうがそうだ。自分が受け入れていることにすら気づかない。そして、その受け入れたものの中で、喜んだり悲しんだり悩んだりしながら、より良い状態を目指そうとしたりする。その結果や手段が、どれだけridiculousなことだろうが関係ない。そういうものだ。

 ごく小さな例だが例えば、数年前の私は、インスタのいいねの数で一喜一憂したし、Twitterのフォロワー数が多い人になれたらいいと思っていた。もちろんそんなことは、真面目に考えたわけでもなく、人生のすごく小さいことだったが、確かに私は、いいねやフォロワー数を気にして、一瞬自分が嫌いになったり、自分の言動を変えたりしたことがある。それだけでなく、フォロワーやいいねが多い人の言動や作品は”正しい”だとか”良いもの”だと思うようにもなっていた。そういう価値観が無意識に自分の中に取り込まれていた。SNSに限らず、そう言うある種のillusionに自分の言動が左右されていることが、人生の中で、もっと重要なことについても起きている。

 しかし、Lucio Fontanaの絵を見て、一歩引いた視点で物事を見れるようになった。自分の中で、キャンバスに置かれた絵具を何の疑いもなくりんごと識別していたように、何かillusionにはまり込んでいることはないかと思えるようになった。自分が知らないうちに参加しているゲームがないか、そしてそのゲームのルールは誰が何のために考えたものだろうかと考えられるようになった。これまで盲信してきた価値基準やルールを、自分が受け入れるかどうか見直そうと思った。

 SNSについて言うと、私は、SNSを全てやめて、しばらくして新しく作り直した。そうすると、思った以上にそのプラットフォームの仕組みに自分の価値観を左右されていたことに気づいた。Twitterでフォローしていれば、その人の意見を毎日見る。そしてその人へ称賛も毎日見る。そしてその人の仲の良い人をフォローする。それ以外の意見はほとんど見ない。ある似通った世界観、価値観の集団にズッポリと入り込んで行って、エコーチェンバー現象でその思想が強化され、自分の価値観までも左右されていく。いざ辞めてみるまでそう言う一種のillusionに一切気づかない。インフルエンサーやコミュニティを築く人に根本的な原因があるわけではなく(恣意的に利用している人は多いだろうが)、仕組みがそう言う風に作用し、状況を作り出している。

 もちろん特定のプラットフォームやシステムで評価されることの価値は、これまでもあったし、徐々に大きくなっているのもわかっている。そういうコミュニティ、フォーマット、プラットフォームやシステムの中で醸成されてきた素晴らしいものがあることも全く否定しないし、大概のものは以前と変わらずに大好きだ。そして重要なことだが、多くの場合、illusionにかけること自体は、善悪で判断されることではないのだ。しかし、自分がどう言うillusionにかけられているかを自覚する、つまり、どういうゲームに自分が参加しているかを自覚し、自分がなぜそう考えるようになったか考えるという、「離見の見」の視点の大事さを身をもって経験できたことは、間違いなく今後の人生の糧になる。そして、今でも、ことあるごとにあの絵を思い出すのである。 終

追記:
やや絵画という表現形式について批判的っぽく書いてしまったが、私自身は以前に増して、絵画という表現も大好きだ。特に印象派や抽象芸術が好きだし、(多くは絵画ではないが)具体派の絵画も好きだ。人の記号を理解する力、つまり抽象を理解する力を利用すると言ったが、だからこそ絵画は最高に面白い。その人にしか見えない"世界の解釈"を伝え、見る人の言葉にならない感情を引き出すことができる。ただ、以前と見え方が変わったことは間違いない。illusionにハマっている自分を自覚しながら楽しんでいる。

どうでもいい追記:
今冷静に考えれば、Lucio Fontanaのその絵も、それまでの普通の絵画を見ていなければそこまでのメッセージ性を感じなかっただろうという点で、ある意味でillusionの世界観の側に依存していると言うこともできる。芸術の世界では、あるジャンルの否定や、芸術として扱われることへの拒否すらも、そう言う分野として芸術のカテゴリーに取り込まれてしまう。なんとも憎いが、もしそうでなければ、私が"美術"館で彼の絵に出会うこともなかったかもしれないと思うと、むず痒い気持ちになる。

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