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間違った出口

ここ最近、自死に関する本を数冊読んだ。以下に記載する。

藤原俊通「自殺予防カウンセリング」
松本俊彦『「死にたい」に現場で向き合う 自殺予防の最前線』
末井昭「自殺」
春日武彦「自殺帳」

はじめは自分自身の希死念慮を知識として消化する為に、読みはじめた。
そうでなくても、一時期精神医学や臨床心理学にはまりこんでいたせいで、そういった類の本ばかり読んでは頭でっかちになっていたし、数年前に私と同じ年の知人が自死を選んでしまったこと、好きな芸能人たちの悲しい選択などからこの分野へ強烈な興味を抱いていたのだ。

上記の本の中で、末井昭氏の著書以外は治療者・ケア側のものであるが、末井氏のエッセイはかなり当事者寄りだ。(著書の母親が自死しているそう)当事者寄りの本を読み終えることで、私がかつて何度か死のうとしたことを思い出さざるを得なくなった。

そこで、せっかくなので記録として過去にした自殺未遂のようなものをここに書き残しておこうと思う。

私が初めてゆるく自死をトライしたのはおそらく中学3年生か高校1年生だった。当時、私の家族の環境が大きく脅かされ、生活が歪み、崩れていく過程にあった。

生物にとって家というものは何があっても帰れば安心して過ごすことのできる場所であるが、その安全地帯がだんだんと目の前で音を立てるように壊れ果てていく。

ちょうど思春期というのも相まって、私の精神は耐えきれなくなっていたのだろうと思う。無理もない。特に不登校とかにもならず真面目に学校には通い、驚くことに高校受験なども難なくこなしていたが、学校へ行っても息苦しいし、かといって誰もいない家に帰ってもまた新たな辛い現実を目の当たりにするのがしんどかった。

「ずっと眠りについたままでいれたらどれだけ楽なんだろう。」という思考が脳の片隅に常にあった。

ある日、コンビニで睡眠改善薬ドリエルを見つけて購入する。「これを大量に飲めば、しばらくこの世からおさらばできるかな。」とはっきりした自死の意思ではなかったものの、一箱全ての錠剤を飲み眠りについた。
結果としては、少々体が重たい程度で8時間くらい寝て普通に起きてしまった。「なあんだ、こんなもんか」と失望しながら薄暗い寝室で目が覚めたのをいまでも覚えている。今思えば、「ずっと眠りについていたら」は一種の希死念慮だったのだろうな。と思う。


二度目のゆるい自死トライは、一度目とあまり変わらない歳ぐらいのころだ。自分の希死念慮にも自覚し始め、はっきりと「死にたい」「消えてしまいたい」という気持ちに埋め尽くされながら毎日を過ごしていた。学校から帰れば、制服から私服に着替えて夜の街へ繰り出して浴びるように酒を飲み、クラブで踊り狂った。全てを忘れたかった。目の前の現実から目をそらしてしまいたかった。

その頃は借金苦かなにかしらで行方不明となった父親の代わりに、数ヶ月間家に帰らず連絡もなかった母親が突然戻って来て、彼女が親権を取得し母子家庭として生活し始めていた。

ある昼間だったと思う。家に誰もおらず、ふと「よし、首を吊ろう」と思い立つのである。何か縊死できそうな適当な紐状のものがないか探すと蛍光オレンジ色の太めの紐を見つける。
それを家のクローゼットの扉の取手に通し、頭を入れられるくらいの輪っかを作る。そこに座り、紐に首を通して尻さえ浮く高さであれば、首は絞まるはずだ。

作った輪っかに頭を通し、首をキリキリと絞める。

部屋に飾ってある時計が目に入る。このあとの時間を、もう私は知らなくて良いのだ。あと数分、時計の針が動いたら私はこの時間の中を過ごす必要がなくなる。

尻が浮く。完璧だ。
さようなら、時間。さようなら、世界。とお別れを告げる。

だめだ、めちゃくちゃ苦しい。驚いた。締め上がった首が息苦しいとか痛いとかではなく普通に息が吸えず、視界に白いフラッシュのような光がチカチカして顔というか頭に血が上っていく?のか、ひどく顔が熱くなる。耐えられなかった。

思わず輪っかから首を外してしまう。呼吸がひどく乱れる。
「うわあ・・・・首吊りって最も楽な自殺の手段と聞いてたのに、なんてこった。」とまた失望した。縊死の苦しさにも、自分の度胸のなさにも。

その家から引っ越しするまで、その蛍光オレンジ色の紐はクローゼットにぶら下がったままにしておいた。白いクローゼットの扉に一点だけ不自然にぶらさがったその紐は私に「お前はいつでも死ねるんだぞ」と言い聞かせてくれるようだった。やろうと思えばいつでも死ねる。これは現実を受け入れることのできない私にとって、これ以上ないほど安心できる思考回路だった。

ある日母親と将来のことにかんして口論になった時、「私はとにかく死んでしまいたいので将来のことなどは特に考えていない。」ということを告げたことがあった。もちろん母親は「勝手にしろ」とのことだったが、その時このクローゼットの扉にぶら下がる紐を指摘し「こんな気持ち悪いのいつまでもそのままにしないでくれる!?」と激怒していた。鈍感な母親が、この紐が自殺未遂の跡だと気づいていたことに純粋に驚いた。


三度目も高校生くらいだったと思う。虚無感も、現実への怒りも、相変わらなかった。
これも昼間だった。家の屋上の柵をまたいで、落ちるか落ちないかギリギリの端っこにしばらく座って、飛び降りる心の準備をしていた。

空を仰いでから、眼下に広がるコンクリートを見る。ここから少しおしりを動かせば、あの硬いグレーのコンクリートに私の真っ赤な肉片と血が飛び散るのだ。最高だ。おさらばだ。
そんなことを考えているとだんだん心が落ち着いてくる。死ねるんだ。死んだら全て終わりだ。もうなにも、苦しいことも辛いことも耐えないといけないこともない。何もなくなる。やったあ。
と微笑みながら、目の前のマンションをふっと見るとベランダに人が出ていて、その人と目が合ってしまう。

「あっ、見られた。」
そう思うと同時に、目が合ってしまったその隣人のことを可哀想に感じてしまう。今ちょうど投身自殺しようとしている人と、その死の直前で目が合ってしまい、家の外に出ればついさっき目が合った人物の遺体を目の当たりにしてしまうだろう、その知りもしない隣人のことを。トラウマになるだろうなぁ。と思った。

今になってみると自殺しない理由付けにすぎないが、(どうにか死なないでも良い理由がほしかったのだろう)私はその隣人を思って柵の内側に入り、とぼとぼと家に帰ってベッドに潜った。通報などはされなかったようで、そのまま当たり前のように時間は日常を過ぎていった。


四度目は、つい5ヶ月ほど前だ。
うつ病との診断が下り、医師にもカウンセラーにも職場を休職するよう言われた。毎日毎日起き上がるのがひどく辛くて、通勤するのも一苦労だ。
不眠、食欲の低下、無気力の身体にムチを打って、どうにかこうにか出勤するも、職場で涙が突然わっと溢れ出して止まらなくなって、動けなくなってしまう。
それなのに職場は人手不足で、休職が許されなかった。いや、正確に言うと「新しい人が入ってその人がある程度仕事を覚えてくれたら休んで良いよ。」とのことで、休職したいと申告したにもかかわらず、無理やり勤務するという状態であった。新しい人なんて入ってもすぐに辞めてしまうし、仕事をいつ覚えるかもわからない。私はもうかなり限界が来ていた。

医師やカウンセラーにそのことを相談すると、「もうそんな職場行かなくて良いよ。」とのことだ。確かにただ、行かなければ良いのだ。ということで週の半分以上を休むか、午前か午後出勤のみにするかなどでどうにか過ごしていた。すると、給料ががっつり減らされる。困った。これでは生活ができない。(貯金なし)

傷病手当金というものがあって、これは病気や怪我などで仕事を休む場合にもらっていた給与の三分の二のお金が振り込まれる制度だ。しかしこのお金を受け取るには、職場から一切の給与を受け取っていないということが条件である。つまり、このまま週の半分以上を職場に出勤できないまま、しかし給与は多少もらっているとなるとこの傷病手当金を受給することができないのだ。

生活する金がない上、うつ状態が苦しく働くこと以前に生活することもままならない。何度ボスに、「もう限界です」と告げても「もう少し待って」の一点張りである。

絶望感と真っ黒で重たいモヤのようなものが血管を伝っていき、全身を支配する。

もう死ぬしかないな。

休職にどうにもありつけないから、いっちょ自殺未遂かなんかして病院に運ばれちゃえばそのまま保護入院という形になって強制的に休職にせざるを得なくなるだろう。あるいは自殺が成功してくれても良い。それならば万々歳だ。

人が自死を選ぶ時の多くは、このように死ぬことが現状から脱することができる唯一の良策だと思い込んでしまう。そう考え出すと、その落とし穴から抜け出すことができず、まさに死神にひっぱられるように死に誘われてしまう。心理的視野の狭窄である。


いつものように、抜け柄のような状態で出勤し、やはり職場で涙が止まらず動けなくなってしまった。これ以上生きてたって仕方ない。死んでしまおう。今日死んでしまおう。解決手段がもうそれ以外ない。

思い立ったら、もう死へ一直線だ。過去の自殺失敗経験から学び、苦しくて紐から首を抜いてしまわないよう、睡眠導入剤を大量に飲んでから首を吊ろう!(ちなみに大量服薬は自殺成功率がかなり低く助かるケースが多い。)ベストだ!と完璧な自殺計画に意気揚々になった私はボスに「無理なんで帰ります。」と言って午後欠勤することにした。

どうせ死ぬんだったら、普段できない贅沢なことしちゃおう!と思い、昼からTSUTAYAの運営するシェアラウンジでアルコール飲み放題プランを楽しむことにした。気になった酒とお菓子を大量に摂取しながら渋谷の青空を眺める。もう今回ばかりは死ぬことを諦めたりしたくなかったし(友達と連絡しながらもう少し生きたいと思い留まりたくない)、連絡を取っていた人たちに「直前まで連絡とっていたのに・・・」と罪悪感を抱かせるようなことはしたくなかったので、ケータイを触らないようにした。

家に帰ると、久々の飲酒のせいか身体がひどく重く、ふかふかの自分のベッドで眠りにつきたくなる。せっかく最期なんだから、自分のこの気持ちの良いベッドでぐっすり眠ってから、死のう。そう思った。死ぬのなんていつでもできるのだ。起きてからなにか美味しい物でも食べて、それで首を吊れば良い。そうすれば二度とあの職場に行かなくて良いのだ。

ということで着心地の好きなパジャマに着替えて、ベッドに潜り込む。睡眠導入剤を飲んで深い眠りについた。

ああ、このふかふかであたたかい私のベッドで眠るのはこれが最後なんだ。これが最後の意志のある眠りか。と思うと、とても気持ちよく深く眠ることができた。

「すいませーん!」「すいませーーーん!」

という声と共に家のドアを叩く音が聞こえてきて、真っ暗な部屋で目が醒めた。

まだ目覚めきれていないぼけぼけとした脳みそで、違う家かなとその声と音を聞いていたが、「すいませーーーん!誰かいませんかー!」という声で、ハッと気がつく。間違えなくこれは妹の声だ。

バレた。

と思った。自殺しようとしているのがバレてしまったのだ。当時私はクリニックで勤務しており、そのクリニックに妹は患者として通っていたのである。私が午後欠勤したこの日の午後に、妹が治療のアポをいれていたのだ。そして、いざ来院してみるといつもいるはずの姉が「体調不良で欠勤した」とのことで不在である。心配になって妹が連絡を何度もするが、私はケータイを触らないようにしていたため、音信不通である。
後に妹に聞いた話なのだが、「こればっかりは、まじで妹の勘よね。」と言っていたのだが、直感的に私が死のうとしていることを感じたらしい。

そして彼女はなんと、友人一同を同行させて私の家の扉を叩きに来てくれたのだ。

私は扉を慌てて開ける。
すると、暗い夜道の中にすらりと立つ妹の姿が目に入る。

「よかったあ!生きてた!」と妹が言う。

嘘みたいだ。さっきまでこの世から消えさろうとしていたのに、真っ暗な暗闇の奥深くまで突き落とされていたのに、妹という存在が私を現実の世界に引き戻してくれた。

私は、ひとりぼっちじゃない。そして、こんなにこんなに大切な妹を私は置き去りにしようとしていたのだ。なんてひどい姉なんだろう。罪悪感に胸を打たれた。

はじめてだった。本当に死のうとしてる時に、誰かが現実に引き戻してくれるなんて。

「なにしてたの?!クリニックいったら体調不良で帰ったって聞いて心配して連絡したのに!」

「あ・・・ごめん。寝てた。」

「なあんだ。大丈夫じゃん。」
「ほら言ったじゃん、寝てただけだって。」
「大騒ぎしすぎだよー」
と妹が連れて来た幼少期からの友人たちが次々と口にする。

私の安否が確認できると、妹たちはそそくさと帰っていったのだが、その後の私はなんだか放心状態だった。

さっきまでは、もう頭の中は死ぬことしか考えられていなくて、全ての行為を「これが最後だ」と噛み締めながら過ごしていた。
妹がその「これが最後」の世界に突然、私の安否を心配して登場してくれることで「生きるべき日常」の世界に引き戻されたのだ。
さっきまで何かに(というか多分「死」に)脳も身体も全て残らず乗っ取られてしまったかのようだったのに、いきなり自分の目で世界が見えるようになり、しっかり歩かないといけないように感じる。目が醒めた。生きてる。生きてるんだ。

ケータイを開く。たくさんの連絡が来てる。妹からはもちろん、さっき同行してくれていた友人ら、母や母のパートナーから「妹があなたのことすごく心配して大騒ぎしてるけど、今どこ?」という旨のメッセージの数々。涙が溢れ出た。

ごめん、ごめんなさい。

自殺しようとしたその選択を申し訳なく思ったのもこれが初めてだった。
みんなの心配をよそにして、そしてなによりもこの世で一番大切な妹の気持ちを置き去りにして自分勝手に死のうして、本当にごめんなさい。


この数日後、再度ボスに「もう限界です」と告げ、やっとのことで休職にありつける。家で泥のように眠り続け、やっと外出できるくらいに回復して来た頃、妹にこの時実は本当に死のうとしていたことを告白した。
本当のことを言おうか言うまいか迷っていた。こんな精神的に不安定な姉を持つことが彼女にとって負担にならないか不安だったのだが、私が「死のうとしている」という彼女の直感力を否定したくなかったし、素直にありがとうと伝えたかった。告げると、「ああ、やっぱり?そう思ったんだよねー。」とサラリと言ってくれる。本当にこんな姉でつくづく申し訳なく感じる。

3ヶ月の休職を経て、結局職場は退職した。現在は傷病手当金を受給しながらのらりくらりと生活している。いよいようつ状態がよくなってきたようで、そろそろ何か仕事をしたいなーなどと考え初めている。

あの頃、死ぬことしか解決手段がない。お先真っ暗だ。これ以上生きてても仕方ない。としか考えられていなかったのに、今はやってみたいと思うことが多い。それに日々、自分の快楽や世界の面白さや美しさを見つけるのが楽しみになってきている。

精神的視野狭窄に陥り、死神に支配されてしまっている時、やはり無理矢理にでも物理的に今ある環境から離れるのが最善策なのではないかと思うようになった。

今年の頭にまた少し、死のほうに引っ張られる時期があった。その頃、韓国である芸能人が、様々なゴシップに潰されるようにして悲しい選択を選んでしまった。ああ、彼もこのゴシップまみれの絶望的な世界が彼の世界の全てになってしまって、他に解決策がないと思い込んで突き進んでしまったんだろうな。と感じた。
もちろんそれだけではないだろうし、人の自死の理由を勝手に外野が想像するのはなんだか故人に失礼な気がするが。
しばらく、ほとぼりが冷めるまで海外に旅行に行っちゃうとかすれば良かったのに。別の国ではゴシップの内容はおろか、彼が芸能人だということも知らない人が多いだろうし、別の環境に行ってしまえば、行き詰まった世界から解放されて、また世界を色を持って見ることができただろうに・・・、そしたらもっと彼は生きれたかもしれない。そしたらもっと、彼の仕事ぶりを見れたかもしれないのに。

歳をとっていくことは美しい。その人の経験が重なるごとに、表現力やその人自身の言葉や思考に厚みが出る。新しい感情を発見したり、新しい楽しみを見つけていったりする。1日1日を過ごしていくことの豊かさに気がつく。

今、死ぬことでしか現状の解決方法がないという考えに侵されている人がいたら、むりやりにでも今の現状から離れてみてほしいな。と思う。

仕事をしていたら、とにかく一旦しばらく休職する。とか、何かに失敗してしまったようだったら、物理的に遠くに行ってみたり、何かにつまずいていたら、とりあえず何もかも辞めてみて、ゆっくり過ごしたり。

そうしているうちにだんだん私たちの疲れ切って凝り固まった痛々しい精神は緩んでいってくれる。そうすると、不思議と感情が戻ってくる。感情が戻ってくると、日々を構築しようとする気になってくる。あんなに、日々をぶち壊したくてたまらなかったのに。

もう、いまのあなたは十分やってます。じゅうぶんすぎるくらいです。もうこれ以上踏ん張んなくていいよ。がんばんなくていいよ。耐えなくていいよ。

希死念慮に囚われる人って自ら死を選択することは、現状から脱する唯一の手段であり、救いだと感じているのだと思う。私もずっとそうだから。それは今でもあまり変わらないし、別に死ぬことが絶対にダメだと思わない。

でも、どうせいつかみんな死ぬんだ。今じゃなきゃダメなこと、ない気がする。

今のところ、私は希死念慮に引っ張られることが減ってきている。妹をはじめ、通った精神科や、長くお世話になっているカウンセラーさん、支えてくれて見守ってくれる愛すべき友人たちに感謝してもしきれない。

これから、また私が自殺しようとしないとは言い切れないけど、そうやって周りの人に感謝しながら、今生きてる自分自身を、自らで楽しんでみようと、最近そんな前向きな気持ちで日々ゆるく生きています。

みなさま、ご自愛くださいね。



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