お金についての対話会


6月30日 ·

実験的な対話の会。

覚書

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ここ数年、多くなってきた勉強会やワークショップ。

オンライン開催も増えてきて、会場費などの経費が実質ゼロ。(そういっても環境を整えるための経費は使われている。その環境の準備や資源にアクセスできない人がまだまだ多いことも意識している、)

あらゆる内側にある思いや情熱から開催されていることにも目が向く。

私は、「参加費ゼロエン」「ボタンティア」の活動も大切にしている。

その意図は、必要なところに必要なものが流れる仕組みの取り組みを少しでもしたいから。

学びたい気持ちのコミットを大事にしたいから。NVCのトレーナーたちにはお金の相談もしてきた。自分の「学びたい」をお金の測りに乗せることなく、大切にしながら学ばせていただいてきた経験、その「コミットする」ことの大切さを体験してきた。手にした価値は大きなものだった。

なので、自分の活動には、

・パワーとインクルージョンの取り組み、

・自分たち(私自身)の気軽な挑戦や遊びや練習の機会、

この2つを置いていた。

資源に対する執着があると、循環するエネルギーが回らなくなってしまうことも見てきた。

お金という資源を持って手にできるものは大きい。それを認めつつ なんでもお金で手にできるとは限らないことも知った。

でも、アクセスできる人が決まってくる。

自分の意図に合っているか違和感があった。

なぜなら、「参加費ゼロエン」としてしまうことでエネルギーとしての循環が起きていると感じることが年々薄れていっている感覚があり、時には消耗している自分もいた。

主体的ではない動きになっているかもと私が感じるとき、何が起きていて どんな影響をし合っているのかとても興味があり、探求したい気持ちがあった。

この探求は、大事なことを教えてくれると直感した。

何かに参加するとき、参加者に起きていること。

(私も参加者であることも忘れずに持ち込む。)

お金についての価値観。

個人主義、資本主義、成果主義、民主主義など…

あらゆるものが混在する暮らしの中、私は私の理想だけではなく、私の周りの理解と、自分の価値観のギャップの確認がしたかった。そしてその中庸に自分を置いて眺める必要があった。

そのどちらにも必要なニーズがあることを見たかった。

無理のない、自分らいしい活動をするために。

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「無料参加」 でも

「受講費を捻出しての参加」でも

願う世界やニーズは同じだった。

  大丈夫だと思えること

  存在

  (未来への)希望

  安心

  信頼

両方に同じようなニーズがあった。

ニーズは同じ。

怖さや恐れも同じだった。

お金にまつわる存在のない声(内的批判者)がどの人の中にも渦巻いていること。

お金があるものがいい、ないものは弱い、ダメだ、甘えるなという声がそれぞれの中にあり、私たちを支配していた。

そして 自分よりも相手の顔色を伺ってしまい 腹の中に声を埋める。苦しさや居心地の悪さから つながりや支援を恥て遮断する行動の選択になっているという現実が見えた。

これは社会問題とその支援の構造に当てはまると思った。

参加しない選択、

参加する選択、

別な代理のシステムを考える(支払う金額は同じにするなど平等であることを証明するものの導入)

いろんな解決策や個人の考えもも出た。

お金が基準になっていることが多く、少し怖さを感じた。

お金に暮らしの価値観の一部が覆われていた。

確かに、お金によって満たされるものがある。

お金という資源を手にするために私たちは一体どのくらい大事なものを手放してきたのかを想像した。

私たちのつながりを遮断している何かが見えてきた。

聞こえてきた声

「慈悲、利他的、共にある、循環、お金じゃないよなど耳にするけど、結局はお金だったというとてもがっかりした経験が何度もあった。もう うんざりしている。」

そんな声も聞こえた。

「たくさん学んできた。山に登る手段や登り方が違うけど、目指しているところは一緒だった。そこに行くのにお金が必要なのかな…?」

社会全部が何かに囚われている状態の中で生きているのかもしれない。

私もその囚われの一部であることを自覚し、そして苦しい。

これらは 感覚的に触れたくないことなのかもしれないとけれど、触れなければ解放の糸口は見えてこないかもという直感が働く。

必死に何かを守っていること。

いのちをかけて生きていること。

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一緒に対話してくださる仲間がいたおかげで 私の探究が進んだ。

また、思いつき対話会をしたいと思いますので 時間が合う方がいましたら ご一緒しましょう。

どうぞご参加ください。

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