記憶に残らない景色と、残る景色 -どっちが見たい?-
スリランカの友人がよく知る優秀なアーユルヴェーダドクターが、クルネガラと呼ばれるエリアにいると言う。
私は自分がブレンドしているチャイ用のマサラが、どの程度、健康に良いものなのかを確かめたくて、今回のスリランカ滞在中にそのドクターにぜひ会ってみたいと思っていた。
友人にその旨を伝えてみると、車を5日間ほどチャーターしてドクター宅を訪問したり、人気の観光名所であるシギリヤロックや、ヌワラエリヤも一緒に周ろうと言い出した。
確かにスリランカへ来てもいわゆる観光名所にはあまり行ったことがなかったし、比較的、安価にドライバーも手配してくれたので、その案に乗ってみることにした。
出発した日は早速クルネガラに向かったが、ドクターには翌日にしか会えないとのことだったので、山の上にあるホワイトブッダを観に連れて行ってもらった。
大きく真っ白な仏様が穏やかに鎮座し、眼下には街を一望できる眺めの良い所で、猿もたくさん居たりして「スリランカらしくて良いなあ。」なんて思った。
その日の夕刻、事件は起きた。
友人と、車のドライバーが怒鳴りあいの大喧嘩を始めてしまったのだ。
その結果、夜も更けたというのにドライバーは家に帰ると言い出し、5日間の予定だった車の旅は初日で終わることに…
しかも友人の体調が悪そうだったので、ならばドクター宅への訪問だけ付き合ってもらったら、あとは私ひとりで適当に旅を続けようと思い直した。
翌日の午後、無事にドクターとの面談も終え、私はとりあえず大満足でひとりトゥクトゥクで宿泊先のホテルに戻ることに。
そのトゥクトゥクのドライバーだが、まったく英語を話せないもののやたらと陽気なお兄ちゃんだったので、お互いジェスチャーで意思疎通をして盛り上がり、すっかり仲良くなってしまった。
すると彼は、「サービスでとっておきの場所へ連れていってあげるよ!」的なことを(おそらく)言い出し、山の上のホワイトブッダの方へ向かって行く。
「昨日もそこ行ったんだけどな、、」と思っていたのも束の間、山道を走り始めると、車で走るのとは大違い。
トゥクトゥクには扉も窓もないので、山の空気をダイレクトに感じることができて気持ちがいい!さらにその激しい揺れも気分を盛り上げる。
少ない馬力をフル稼働しながら登るに連れて、どんどんワクワクしてくる。
そして再び、ホワイトブッダの下へたどり着いた。
まさに「たどり着いた」という気持ちも手伝ってか、目に飛び込んできたその後ろ姿の神々しさに息を飲んだ。
これって昨日と同じ場所なんだろうか?
と思うほど、景色が違って見えた。ホワイトブッダも、見下ろす街の景色も、走り回る猿も、すべてが色鮮やかに心に響いた。
祈るのになんて相応しい場所なんだろう…
と、山頂に仏像を建築した古代の人々の気持ちを、ほんの少し感じ取れるような気さえしてしまった。
同じ景色でも、ここまで違って見えるものなのか。
景色だけではない、その空気も、自然のあり様もすべてが何かを訴えかけてくるかのようで、「素晴らしい体験をしている」という感覚に包まれることができた。
私にとって、”自分の意志×偶然性”によってもたらされた物は、とてつもない喜びになるんだ、ということが明確に分かった。
だから、事前にゴールを設定してしまう”数値目標”とか、安心材料として必要な”過去実績と進捗”とか、既定の価値で作られた”エリート街道”とか、それさえあれば社会的に認められるかのように見える”憧れ〇〇”とか(憧れブランドとか、憧れのマイホームのような)、ピンとこないんだな。
とつくづく思った。
「世の中や誰かに連れて行ってもらう未来」よりも、「大事なものを磨きながら生きていたら、たまたま辿り着いた未来」の景色を見てみたいなあ、とクルネガラの山の上で考えていた。