なぜ殺人事件は被害者が女性のときのほうが話題になるのか。

はじめにお断りしておきますが。
これは最終結論が、
男尊女卑は必然ではないのか??!?
で終わっている、
なかなかえげつない論考です。



女性は感情の存在である、
そして男性は思考の存在。
思考と感情、
という二分類では
この世においては
思考のほうが圧倒的に有利であり、
感情とは本来この世には属さないはずのもの。


なので、
この世界を生きていく(サバイブする)、
というテーマに限定するなら、
思考存在=男性のほうがはるかに有利であり、
社会制度も社会常識も、
すべてそのように、
すべて思考存在(=男性)の視点から作られている。
であれば、
男尊女卑は必然ではないのか??!?



ということについて、
『感情の結晶化』という、
まことに扱いづらいテーマを介して、
いまのわたしの考えを述べています。



はっきりいって、
かなりの長文です。
9000文字オーバー。
というか1万文字になったった!!
なので、
お時間おありのときにどうぞ。






では始めます。
ここでいう『感情の結晶化』とは、
通常の喜怒哀楽を大きく超えたレベルの感情が文字どおり『結晶化』し、
わたしの気持ち、
あなたの気持ち、
などという通常の感情レベルからは大きくかけ離れて、
『見ず知らずの第三者をも突き動かす』ほどの感情の塊ができてしまうことを言います。



第三者からもはっきりと認識できるほどに
巨大な『感情の結晶』を創るのは、
ある種の芸術作品の創造にも比肩しうる偉大な行為ではあるのですが。



どうやら、
結晶化できるのは、
ネガティブな感情だけであり。
ポジティブな感情はすぐに〝 揮発〟してしまって結晶化できない。


また、
結晶化できるほどの強い感情を扱えるのは多くの場合、女性だけ。

逆に言って、思考を結晶化するのは圧倒的に男性のほうが有利。

なのだが。
それに加えて、

思考と感情を対比すると、
思考はそれを考えた当人からは独立して存在できるが、
感情はそれを放った本人から離れていかない。

ここに
『ネガティブな感情しか結晶化できない』
という事実を付け加えると、
全体として、こうなる。


①おもに女性が感情を結晶化させる
②それは芸術作品とも呼びうる偉大な結晶化ではあるのだが
③ネガティブな感情を結晶化させても、
それは本人から離れていかないので。
④結果的にそれを創った女性自身は、死ぬか人生を壊されるかしてしまう


今回の趣旨は、
そんな話。



といっても、
『結晶化』ということの意味からして
いきなり言われても
わからないでしょうから。


まずはね。
補助線としての
『物理的な物体の結晶化』から
話を始めます。







たとえば、
彫刻家が石を切り出して彫像を創る、
というとき。


芸術作品を創造する行為は、
芸術家本人にとっては、
ポジティブな行為ではあるものの、
他方、ネガティブであるとしか言えない側面もかならず伴っており。
意味不明かもしれませんが、
彫刻にされてしまった岩塊からすれば、
それはかならずネガティブな体験でもあります。


できあがった彫刻はとても美しく、
まるで他の星にでもそのまま輸出できそうな、
ひとつの独立した完成存在であり、
鉱物による結晶体だ。
この現象をポジティブだというなら、
たしかに芸術作品の創造は、
ポジティブだ。
あたらしい何かがたしかにこの世に生まれたのだから。



他方、
ネガティブな部分というのは、
切り出された石の運命のこと。
彫像になるまえ、それは地球という大きな『石』の一部だった。
しかし、彫像として完成させられてしまった以上は、大きな『石』(=地球)からは独立させられ、二度ともとには戻れない。
地球から切り離されて、ただの芸術作品にされてしまった、かわいそうな岩石の気持ちを考えてみましょう。



なんてね。
わたしたち人間が、
地球そのものを構成している岩石の気持ちを理解するのは不可能だし、
ここまではただの比喩。



ただし、
芸術作品を創作する、
というときの、
創作、
という行為は、
分離と統合でいえば、
分離に相当し。
だから、
ポジティブとネガティブでいえば、
ネガティブです。


この側面は忘れられがちなのだが。
何かを分割する行為は、
下降であり、ネガティブ。
何かを統合する行為は、
上昇であり、ポジティブ。


この尺度に当てはめてみると、
芸術作品にかぎらず、
あらゆる創造行為は、
ネガティブです。


ようするに、
創造というのは
自分自身を分割して、
自分自身のミニチュアを創る行為だからです。
彫刻でいえば、
物品としての彫像は地球の一部を切り離したものだし、
作品として見るなら作者という存在の一部が反映されたもの。
こんなふうに、
全体から一部を切り離して、
『定着させる』
ことで、芸術作品はできあがります。
全体からの分離、という観点からいえば、芸術作品の創作は、かならずネガティブな行為なのです。


でもでも、
スピリチュアル界隈の一部などでは、
芸術作品の創造はポジティブだ、
などと語られていますよね。


たしかに、
創作、という行為を通じて、
その人の思考パターンが統合される。
感情のパターンも統合される場合もある。
とすると、
当人にとって、
その部分(統合)だけは、
たしかにポジティブですよ。


でもね、
語られることのない側面として、
あらゆる創造行為は、
その本質において、
ネガティブなのですよ。
なぜなら、
それは分割であり制約だから。



このことをもっとも単純化して言えば
こうなります。
イエス・キリストが生まれた。
というとき。
キリスト教徒にとっては、
イエス・キリストが生まれたことはポジティブでしょうけど。



しかし、
『イエス・キリストとして生まれることによって』
『それ以外の存在にはなれなくなってしまった』
という意味ではネガティブなのです。


創造行為はネガティブである。
とは、そんな意味です。





では、
話を本題に戻します。

通常の喜怒哀楽を
大きく超えて。

巨大な『感情の結晶体』を創造する行為は、
もはや芸術としか呼べないほどに
〝感動的〟で。
事実として、
多くの人々を突き動かす場合もある。
しかし創造行為というのは、
その本質においてネガティブだから、
『感情において』
そのようなことをした本人(たいていは女性)は、
死んでしまったり、
人生を崩壊させられてしまったり、
する。


こんなことが、
今回のテーマです。

さて。
人間は肉体ではなく
思考と感情でできている。
という見方をするとき。
繰り返しになりますが、
思考は男性のほうが強く、
感情は女性のほうが強い。

そうして、
思考や感情を
(まるで彫像のように)
結晶化させることで、
ある種の『芸術作品』を
創造することができます。


まず先に思考について。


具体的に言って、
数学や物理学の論文は、
『思考の結晶化』による芸術作品だ。
という見方が成り立ちますね。

数学や物理学の分野で、
あらたな論文が提出され
『あたらしい発見があった』
というとき。
人類にとってはそれは『発見』でも、
もっと広い視点から見れば
それは『創造』であり。


その発見内容は、
人類にとってはあらたな
『(科学的)真理』かもしれないが、
実際には、
それとはまったく別の真理体系だって存在しうるわけだから。
それは、
ほんとうは、

真理を発見した、

のではなく。

『思考を結晶化させた』

のだ。



幾何学も代数学も微分積分も、
けっきょくのところ、
ひとつの『思考の結晶化』に過ぎない。
幾何学的/代数学的/微分積分的思考を一切使わずに、しかし地球人のものよりはるかに高度な数学を使いこなしている他の文明というのは、宇宙にはいくらでも存在することだろう。



物理学に至っては、
けっきょくのところ、
地球が与えた時間と空間について、
人類の目線から記述しているに過ぎず。
これだって『思考の結晶化』であることには違いはないが、
そうは言っても、
もっと高度な文明を有する他の星では
そもそもの『時間と空間の生成法』が語られており(!!)、
地球内部での時間と空間のカウントシステムを宇宙にも無自覚に適用したあげく、
宇宙は137億年前に誕生した、
などと言っているのは、まぁ実直に言って地球人の愚かさの結晶ですね。
地球そのものが人類を過度に束縛しており、人類の思考パターンにまで過酷な干渉を加えて、外の世界(=宇宙)には決して触れさせようとしない、ということもあるんですけどね。




あ、いや。
なんか話が逸れ始めたね。
わたしが今回語りたいのは
『感情の結晶化』についてですから💦

思考は男性において強く、
感情は女性において強い。

という実情に照らして、
『思考の結晶化』としての学術論文は
大半は男性によって書かれた。

学者としての生き様と功績、
という観点からは、
科学に進歩をもたらすような『発見』は、たしかにポジティブではあるだろう。

一方、
ひとつの『思考の結晶』が
世に認められて有名になることは、
『ほかの見方をできなくさせる』
という側面をも伴っており。
わかりやすく言えば、
『宇宙は137億年前に誕生した』
という〝発見〟が一般人にも知れ渡るほど浸透してしまうと、
逆に言って、
『時間と空間の生成法』は、
一般の地球人からは見えない位置にまで遠のいてしまう。
なぜって、宇宙は137億年前に創造された、とする理論には、言うまでもなく、
『時間と空間は人間には生成できない』
という前提条件を含んでいるからだ。
ある『思考の結晶』が支持され普及することは、別の種類の思考を見えなくさせ、結晶化する機会も奪っている、とも言える。こちらがネガティブな側面。



あ、いや。
また話が逸れそうだ💦
今回語りたいのは、
『感情の結晶化』についてです💦



感情が強いのは女性だから、
『感情を結晶化させた』
芸術作品の創り手は、
ほぼ全員、女性です。


さきほど
『思考の結晶化』
ということについて説明したのと同じように、
『感情の結晶化』
ということも、できる。
こちらも、ある種の芸術作品のような影響力を実際に持っている。
ではそれはどのようなものなのだろう??




まず、
『感情を結晶化させた』芸術作品を創ることの、ポジティブな側面とは、
文字どおり、
芸術作品が出来上がる、
ということ。
この一点だけ。
一方で、
ネガティブな側面とは?


それは、
女性が感情を結晶化する、
というとき。
ありとあらゆる感情のなかでも、
結晶化できるのは、
ネガティブな感情だけ。


そして、
男性が学術論文という形で
『思考を結晶化』させても
それとは関係なく
当人の人生は継続するのに対して。


女性が自分の感情を結晶化させて
芸術作品を創作したときには、
その原材料となる
『ネガティブな感情』を
大量に放出させられた当人は、
たいていの場合、
〝作品〟が完成する頃には、
人生そのものを
変形させられるか
崩壊させられるか
終わらされてしまっている────。









わたしが
何の話をしているか、わかりますか?
ほんとうに述べにくいテーマなので、
前置きの説明が長くなってしまいます。

男性は思考を結晶化させて、
たとえば学術論文を創る。
論文でなくても、
多くの場合、
仕事そのものが思考の結晶化だ。
概して男性が家庭よりも仕事を好むのも、
仕事を通じて思考を結晶化できるから。


思考と感情。
というツーパターンだけの世界観で見るのならば、
仕事というのは思考の結晶物ですよ。

でね。
女性は仕事よりも家庭を好む(傾向がある)。
という話はですね、
思考と感情、
という世界観から言えば、
自分の家には自分の感情を置いておけるからです。だれにも邪魔をされることなく。



仕事と家庭の二択なら、
わたし個人は明らかに仕事好きですけど。
でもね、
実家から独立してひとり暮らしをするようになって、やっとわかった。
家庭、といってもひとり暮らしの自分のアパートですけど。
自分の家には、
自分の感情を、
好きなだけ置いておけるから、
自分の家が好き!!


男性と女性を単純に二分する考えは、
いまではよく批判されるし、
わたし自身LGBTの端くれだから、
単純な男女の二択にはそもそも当てはまらないのだけれど。



でもね。
思考と感情の二択。
というふうに分類し直したとき。
明らかにわたしは『感情のほうが強い』し、
思考を扱っている時間よりも
感情を扱っている時間のほうが長いし、
思考によって感情が動くことよりも、
感情のために思考を動かすことのほうが、はるかに多い。

(※自分の仕事内容=思考を褒められて喜ぶ=感情が動くのは男性的、一方で自分の感情のアップダウンが激しすぎて、それを扱うためにあれこれ研究=思考せざるを得なくなったわたしは明らかに女性的だろう)


もうひとつ。
あらゆる創造行為はネガティブだ。
という話をすでにしましたが、
思考というのは、
分割と細分化でできているので、
思考も本質的にネガティブです。
なので、
思考による結晶物を創作することは
『創造行為はネガティブである』
ということと矛盾しないしバッティングしないし、まったく相性がいい。

あらためて確認すると、
あらゆる思考というのは、
その本質において、
ネガティブなんですよ!?
ポジティブシンキングがどうの、
という話も含めて、
思考というのは、
存在そのものがネガティブです。

ただし、同時に、
ありとあらゆる創造行為そのものが、
本来的にはネガティブなので、
『思考による創造』という行為は、
ネガティブ同士が相性良く重なって、
矛盾が表面化しない。
というだけの話なのです。

ふと原始人の生活を思い描いて。
文明が進化すればするほど、
人間はむしろ退化しているのでは??
などと想うとき。
あなたは創造行為はネガティブである(同時に思考という存在もネガティブである)
という事実に触れているのです。

余談ですが、
わたしはいま熱烈恋愛中でして💕
とすると、いまのわたしには、
ほんとうは愛するあの人以外、
何ひとつ必要はないのだから。
するとどうしても、
原始人に象徴されるような、
原初的なありかたへの憧憬は強くなります。
創造に創造を繰り返して。
分割に分割を重ねた、
ネガティブ世界のどん底に棲んでいるのだ、
ということを否応なく思い知らされる瞬間ですね。






ああもう!
余談と前置きが長くなりすぎだ!!
①創造行為は本質的にネガティブである
②しかるに思考もネガティブであり
③そこに矛盾は存在しない。
ということを
『前置きとして』
ここまで述べてきました。



でもね。
それに対して、
感情によって創造する。
『感情の結晶化』
によって芸術作品を創る、
という場合。
ネガティブな感情は、
文字どおりに、
ネガティブな感情のままなのですよ。
このことについて、
わたしはたいへん衝撃を受けたので、
それについて今から語ってみたいと思います。

















何の罪もない女性が、
見ず知らずの男性(複数)によって拉致されて殺害されてしまった。
しかも、何度も何度もレイプされてから。



こういう話って、
ものすごく人目を引きますよね。
それはなぜ??


ハッピーエンドよりも、
ネガティブすぎる悲惨なバットエンドのほうが、はるかに注目を浴び、語り継がれる。



なぜ、こんなことになるのですか??




ちょっと考えてみてほしい。
いまから数分、考えてみてほしい。







殺害された彼女が死の直前、
あまりにも強い感情を大量に放出し、
それが『感情の結晶』として結実したから。


というのがわたしの答えです。


2007年に名古屋市で殺人事件があり、
男3人が結託して見ず知らずの女性ひとりを拉致して金品を奪い、かなり残酷な方法で殺害した。
(※レイプは無かった模様)
それから13年後の
2020年、
その事件を題材にした映画が制作され、
それについての告知記事を
読んでしまっただけで、
わたしはひどくショックを受けてしまって、いまも立ち直れないでいる。


2007年名古屋市のこの事件について、
わたしはその告知記事さえ見なければ
なにも知らないままだったのですよ。



13年もの後に、
見ず知らずのだれか(※わたし)にまで
強い衝撃を届けてしまう、
このエネルギーは
どこから来たのか??



これを
今回の論考でわたしは
『(被害女性の)感情が結晶化したもの』
だと考えているわけです。


事件そのものとはまったく無関係であるはずの報道関係者に映画制作を決意させ、実際にそれを完成させてしまうのも、やはり『感情の結晶』が先立って存在しているからで。
それに絆されるように突き動かされた人々がいたからこそ、映画は完成したのでしょう。


被害女性が殺害された当日の時点では、まだ出会ってさえいないたくさんの人々をも突き動かして、取材記事はもちろん、映画まで完成させてしまう、その情熱は、いったいどこからやってきたのか??
というとき。


とても言葉にはしにくい
その部分を、
わたしは
『感情の結晶化』
と呼ぶことにしました。
実際、赤の他人を
(感情面でも具体的行動においても)
実際に動かしてしまうほどのエネルギーが、そこには宿っているわけです。




わたしは
ディープなオカルティストなので、
異次元が目に見えます。
(※すべての異次元、とは言ってません)
物質ではなく、
感情が実在する次元というのがあって、
それが〝目に見えて〟しまうわけですよ。


そうは言っても、
『異次元など存在しない』とされる、
この世界(物質界=いわゆる現実世界)に籍を置きながら、
同時に、
他の次元を覗き込んでいるわけですから。どうしても手探りでちょっとずつ理解していく感じにはなります。この論考も、夢から醒めて(寝起きで)気づいたことを忘れないうちに書き留めておくのが第一の目的なのでした。



もともとわたしが知っていた事実として、
『感情は女性のほうが強い』。
(かわりに思考は男性のほうが強い)



だが、
『感情を結晶化させる』
という見方に気づいた
(というか教えられた??)
のは今日が初めてだし、
それによると、
結晶化させられるほど強い感情を持っているのは女性だけ。

(※例外はあります。またLGBTについては何とも言えません)



そして、
なによりショックだったのは、
結晶化できるのはネガティブな感情だけであり、ポジティブな感情は〝揮発〟してしまって結晶化できない、ということ。



具体的な現実に置き換えると、
①単なるラブラブハッピー物語よりも、悲惨なバットエンドのほうが、はるかに人々の注目を集める。
②被害者は女性である場合のほうが、
(男性が被害者の場合より)
はるかに盛りあがる。


事実として、
そうですよね??!?



こんなふうに、
かなり指摘しずらい話題ですが、
はっきりとした傾向が見て取れます。



男性は思考。
女性は感情。

というとき。


男性が書いた専門分野の学術論文は
部外者には意味不明です。

思考の結晶化は細分化されていく。

また、書かれた論文は書いた当人からは独立して存在し、
百年前に書かれた物理学の論文がいまも評価されている、という場合、
いまでも読まれ引用されているのは論文それじたいであって、書いた当人は忘れ去られていても別に問題はありません。




それに対して、
感情は本人から離れられない。

13年前の殺人事件について考えるとき、
被害者の存在イメージと関係なく、
事件だけを扱うのは不可能でしょう??

それだけではなく、
被害者本人の性別や年齢についても無視することが不可能で、
年齢性別を伏せてただ『人』という設定にするのは事実上不可能です。

それどころか、
過度に美化された存在イメージが、
事件後になぜか作られてしまう場合もあります。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
これは完ぺきに余談ですので。
できれば読み流してください。
殺人事件の被害者が、場合によっては美化されるのに対して、性犯罪の被害者はなぜか〝汚化〟されることがとても多くて。不必要な汚名が勝手に付け加えられてしまうことが多くあります。なぜこんなことになるのか?
殺人事件の被害者はすでに死んでいるから、この世にはおらず、この世にいない者ならいくらでも美化されうる。
一方、性犯罪の被害者はそれだけで自動的に死んでしまうわけではないので、その後も人生は続き、生き永らえてさらに辱めを受けつづける、という実態があります。
これだと死を美化してはやく死にたくなるのは当然なのではないか???
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



男尊女卑よりも男女平等のほうが良いし、
フェミニズムもLGBTの権利向上も、
やらないよりは、やったほうがいい。

それはわかる。

でもさ。

男女、ということでなら、
まだ平等を目指すことはできても、
思考と感情、
というのはまったく公平でも対等でもなくて。

『ネガティブな』創造世界で、
『ネガティブな』創造行為を行う、
『ネガティブな』思考という存在。
そこには何の矛盾もなく、
思考は思考として堂々とこの世界に存在できる。


それに対して、
感情はこの世界に対して逆位置なのだ。
感情というのは基本的にはポジティブであり、
言い換えれば、
しあわせの絶頂にいるときには、
この世のことなど忘れてしまっている。


逆に言って、
この世との関わりが深まれば深まるほど、
感情はネガティブになり、
感情は結晶化する。
殺人事件の被害者になって人生を終えれば、その記録は永遠に残る(すくなくともこの社会が滅ぶまでは)。殺されるときに遺した強い感情はこの世界に永遠に刻まれる(人類が滅びるまでは)。

ふつうに平穏に生きて死んだのなら、

名も無きどこかのだれかとして、
静かに消えることもできたのに。



こんなふうに。片や、
思考はこの世界とマッチしていて、
思考の結晶物はこの世界を構成する構造そのもの。

それに対して、
感情は本来、
この次元には属さないはずのもので、
感情の結晶化とは別の世界からこの世界へと堕とされて捕獲されたその記録、
墓標のようなものだ。



この絶対的な差異が、
例外はあれど、
そっくりそのまま、
男女の差でもある。


男女、と言っているかぎりは、
一見、平等を目指すことは可能なように思える。
しかし、
男性=思考存在
女性=感情存在
というふうに分類しなおすと、
この世は思考存在のためのもので、
この世の構造そのものが、
そんなふうにできている。


この世は思考存在(=男性)のためのものであり、感情存在(=女性)なんて、そもそも実在するのか??という扱い。

また、
あえてこの世の目線から
感情存在(=女性)について考えるなら、
『感情的になる、』
という言葉が象徴するように、
この世で認知されている『感情』とは、
およそネガティブなものばかりだ。

なぜなら感情というのは減点法でできていて、なおかつ感情が表面化するのは、
ネガティブになったときだけだからです。

実際これはわたし自身の実体験からも、
はっきり言える。
感情がポジティブ方向に高まりすぎると、あまりにもしあわせすぎて、この世のことなどすべて忘れる。それどころか別の世界を垣間見ることもある。


そういうわけなので。
男女、という区分ではなく、
思考と感情、という区分で見るのなら。
どう転んでも、
この世界においては思考のほうが有利だし、
であれば、
男尊女卑は必然ではないのか!?



事実として、
男尊女卑を否定して男女平等を実現させるためのプログラムはすべて、
『女性を思考存在へと改変しよう』
と言っているようにしか、
わたしには思えない。

卑しい感情存在(=女性)を、尊ぶべき思考存在(=男性)に改造するのが教育であると。

であれば、

男尊女卑は必然ではないのか??!?




感情存在としての女性、
というとき。
感情はネガティブなものになればなるほど、
他人の目にも見えるようになり、
第三者をも動かすようになるものなのだから。
そうである以上は、
ポジティブな、崇高な感情を呼び出す機会はますます失われ、
客観的には、
女性とは感情的な存在、
つまり『ネガティブな』感情を大量に保有する存在として扱われる。
であれば、
男尊女卑の解消法は、
『女性も思考存在に改造しよう!』
ということしかありえなくなり、
そんなことをしてもネガティブな感情が消えるわけではないので、
『ネガティブな感情の保有者』としての女性の劣位はますます強化されるばかりだ。

であれば、

男尊女卑は必然ではないのか??!?




もうひとつだけ言いたい。
生理痛がやたらと辛いこととか、
いわゆる女性特有の病気、婦人科系の疾患は多数あるのに、男性にはそんなものは無いこと。
あるいは、
実際に婦人科系の病気で子宮や卵巣を摘出させられてしまう女性は多くいるのに、男性が病気で睾丸除去や男性器除去になることなどほとんどありえないこと。
手術で男性器を取り外すのって、MtFトランスジェンダーのSRS手術(いわゆる性転換手術)だけではないんですかね。
女性の卵巣摘出・子宮摘出はそれとは比較にならないほど多く発生していますよね!?


なぜこんなことになるのかって、
女性は本来、感情存在なのに、
感情の扱い方をまったく知らされず、
『感情的である』ことは、
理性を欠いた恥ずかしい状態であると
教えられてきたからです。
実際、抑圧された感情が骨盤の内側に大量に溜め込まれていたりしますね。
ようするに、ほんとうに知るべきことを知らされていないわけですよ。
思考はこの世に対して順位置なのに、感情は逆位置だから。


とすると、
高学歴のキャリアウーマンというのは、
『自分自身を思考存在へと改変することに成功した、女性』
ということになるので、感情の抑圧は激しいでしょうし、であれば生理痛は重くなるし、当然婦人科系の疾患も増えます。
(※もちろん例外はあるでしょうけど)




思考はこの世を堂々と闊歩できる、
感情にとってはそんなことはない。

思考存在(=男性)はこの世の存在。
感情存在(=女性)はそうではない。


男尊女卑は必然ではないだろうか??!?



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