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とある夫婦の平凡な1年

小さなメッセージカードにひと言ふた言書くだけなのにぽろぽろ泣くわたしを、大袈裟と鼻で笑う人もいるんだろう。


結婚記念日の前日は、心療内科の予約があった。
朝は起きれるか不安だからいつも夕方。寒の戻りというのだろうか、天気は良かったけれど風が冷たかったので、身につけていた半袖を脱いで夫の長袖のフードパーカーを着直す。上からデニムのサロペットスカートを重ねて、まだ半端に伸ばしたままの髪は後ろ手に結った。
ひとりで電車を乗り継ぐのはやっぱりまだまだ怖くて、我慢せずに頓服薬にも甘える。
今日頑張れば明日は記念日だ、そう言い聞かせてふぅと息を吐いた。

「ちょっと行ってくるでね、お留守番よろしくね」
声をかけると、猫はハンモックの上で仰向けに溶けながらゆっくりまばたきをする。
「はやく帰ってきてね母ちゃん」
心がきゅっとなる。今日は診察と採血と薬局で薬を貰う予定で、混んでなかったらいいなと思いながらもう一度「行ってきます」と言った。
最近履いていなかったVANSの厚底を装着する。軽くてクッションもいいから、歩きやすくて好きな靴だ。なおさんがくれたSAUCONYももちろん好きだけど、今日はVANSのソックスを履いているので合わせたかった。
スニーカー好きのなおさん、まんまと彼の影響を受けたわたし。靴の多さに隙間のない玄関。2足分のサンダルを入れ込むためにまた整頓しないとな、みたいに思いながら、ドアを締めてロックを掛けた。

「結婚記念日は同じサンダルを買おう」
数日前からふたりで話し合って、そう決めている。


電車は少し混んでいて、わたしはドア付近に立ったまま揺られる。足元のVANSの厚底が支えてくれるからそこは心配なくて、車内の人たちを意識しないように窓の外をずっと見ていた。
悪い緊張が胸あたりにまとわりはじめたけれど、自分に「頑張れ」と言う気持ちでパーカーの袖を握る。
ちなみにこの厚底は、なおさんと出逢った後に買ったもの。今でも遅くないと思って「お揃いの買いなよ」とおすすめしているけれど、彼の好みじゃないらしい。ちょっと悔しい。

最寄りから総合駅で乗り換えて、別の総合駅で降りる。平日でも人が多くて、呑み込まれてそのまま消えてしまいそうな怖さも伴いつつ改札を出た。
わたしはクリニック近くの商業施設にある雑貨屋さんに逃げ込む。スマートフォンを見ると予約時間の30分前で、院内で30分待つよりも気が紛れると思った。
通行人は多いのにお店に入ると混み具合が引いた感じで、少し安堵する。ちらほら店内にいる人たちのことも気にせずに商品をぼーっと見れるから、雑貨屋さんは好きだ。
お店の方には申し訳ないと思いながらも特に何かを買う予定もなく、何となく見ていた私の目に留まったのは、いくつものハンカチタオルがかけられた回転式の什器だった。

以前雑貨屋で働いていたことがあるから、少し懐かしい気持ちでその什器を見た。
ハンカチタオルはちょっとしたギフトとか、メインの贈り物に添えるように追加で買う人が多かった気がする。
実際に我が家にある数枚のハンカチタオルも、そのほとんどが頂きものだ。手頃な価格で可愛いデザインがたくさんあるから、ついつい手が伸びてしまう。変な話、販売側の視点になるとその「追加買い」で客単価や買い上げ点数が上げられる、小さくても大切な商戦アイテムだったりもするのだけれど。

よく見かけるブランドのかわいいデザインだったり、母の日のギフトを意識した色展開だったり、回転什器にはいろんなハンカチがかかっている。
そうして何気なくくるくる什器を回していたわたしは見つけてしまうのだ。
視線よりもずっと下のフックにぶらさがる、イニシャルがあてがわれたシリーズを。
「えー……。めっちゃかわいい」
心の中はちょっと動揺していた。それは世界的に人気なわんちゃんのキャラクターが、イニシャルと一緒に縫い付けてあるものだった。
キャラクターものを見えるところに飾らない人間だったから、このわんちゃんのアイテムも我が家にはひとつもない。あるのはテレビの脇を飾る、なおさんが大事にしている人型の貯金箱と、VANSと何かがコラボレーションしたときのイモムシみたいなオブジェだけ。
非常に迷う。

でも、とわたしは一筋の光を見出す。
このわんちゃんのキャラクターならばジェンダーレスに持ちやすいと思った。かわいい、かわいいんだけれど、女の子っぽいとかそういうのじゃなかった。
アイボリーのタオル地に黒のパイピング。黒のイニシャルの横にモノクロのわんちゃん。星や月が金糸で刺繍されている、性別問わず贈りやすいデザイン。
家の洗面台の鏡裏にしまってある頂きもののそれらも、猫やらのキャラクターが付いているやつだってあるし、これくらいなら大丈夫かな、うん。
何にせよ雑貨を見るのは楽しくて、あっという間にそろそろ店を出る時間になる。よし、と決めて膝を折りながら「М」と「N」のアルファベットがついたものをひとつずつ手に取った。


夜の鮮やかな青が夕焼けのオレンジを山の向こうに追いやっている頃、わたしは自宅の扉を開ける。
結果的に長袖にして本当に良かった。気温は低くなかったかもしれないけれど、やっぱり港に近いからか風がしっかりある。
なおさんのパーカーに感謝しながらリビングに行くと、猫はいつも通り「ぼくいい子にお留守番してたで!」みたいな感じでちょこんとおすわりしていた。
「ただいま、ひとりにしてごめんね」
「何言うてんの、お留守番あっという間やったで」
それはあなたが寝ていたからでしょうね、と言うのは喉の奥に飲み込んでおく。

手を洗って部屋着に着替えて、ナイロンのサブバッグから荷物を取り出した。
処方された3週間分の薬と、雑貨屋さんの袋。
薬達は専用のBOXにしまってわたしはハンカチタオルをテーブルに置いた。「М」は自身のものなのでそのまんまで、「N」をなおさんに渡すために簡素なラッピングをしてもらった。
記念日は明日だけれど、もう今夜渡してしまおう。
隠し事ができない人間なので、どうせ明日まで待とうとしてもそわそわして結局あげることになるのだから。

キッチンカウンター裏の棚の隅には、いつでもメッセージを残せるように付箋とメッセージカードを置いている。
手のひらの半分もないくらいの小さなカードを1枚と、ブルーのボールペンを取り出してにらめっこをした。金のインクで草花を型押ししたみたいなデザインのカードに書ける文字数は多くない。
カウンターの上のスポットライトひとつを頼りにペンを握った。
なおさんへ。
結婚して1年、たくさん困らせてごめんね。ずっと支えてくれてありがとう。
これからも頑張って元気になるので、そばにいてください。

たったこれだけのメッセージ。ありきたりで、捻りもない普通の言葉。
「……母ちゃん?泣いてるん?」
横からまるが覗き込んでくる。思わずテーブルのティッシュを2枚取って目を隠した。
結婚して1年。たった1年。けれどこの短文に全ての気持ちを込められないほどに濃い日々だった。 

【うつ】と診断を受けて、わたしから離婚の言葉を言うこともあった。何度もあった。
なおさんを引きずり込みたくなかったから。夫婦のどちらかがうつになると、支える側も共倒れすることは少なくない。それが原因で、あるいはそれを避けるために「離婚」を決断する夫婦もたくさんいると知った。
わたしは、わたしのせいで夫が辛い思いをするのが怖かった。症状が重くて泣き崩れるたびに、少し落ち着いた頃に離婚を意識する。夫にあんな顔をさせたのはわたしだ。妻の資格はないんだ。
わたしから逃げて欲しいという思いも込めて、離婚や別居の相談をするのだ。

なおさんからの返事はいつも同じだった。
「何があっても、俺から別れを言うことは絶対にない」
それは結婚すると決めたときから揺るがないものなのだそうだ。その真摯な彼に、嬉しさ半分戸惑い半分だった。そうしてまた悩む連鎖。
あのときの辛い気持ちは、この先も忘れることはないんだと思う。

近頃はそういう会話をしていない。症状が良い方向に進みはじめたからだと思うようにしている。
だけどこの1年の記憶がばばばっと脳裏を走って、自分がなおさんと共に、明日入籍1年を迎えられることを奇跡のように思った。これは決して大袈裟な話じゃない。
ただの「ごめんね」や「ありがとう」では到底伝えきれない想いが1年分ある。
少し前に振り返って話したとき、なおさんも言っていたんだ。笑いながら。
「めっちゃ濃い1年やったね」


どうにか涙を引っ込めて、隣で見てくる猫を撫でる。
「母ちゃん、これ噛んでいいやつ?」
「あかんよ、父ちゃんへのお手紙やからね」
撫でられながらメッセージカードに鼻を近づけすんすんする息子からそれを遠ざけて、ラッピングしてあるほうのハンカチの袋に忍ばせる。
元気にならなきゃ。1年目はなおさんがひたすら耐えて頑張ってくれたから。
次はわたしが彼を支えたいのだ。
「十分やで」
いつも言ってくれるなおさんの言葉が頭に浮かぶ。
うん、それでももっと頑張るよ。頑張れるように元気になるよ。
それが今のわたしの生きる糧になる。

『とある夫婦の平凡な1年』

帰宅した夫にハンカチとカードを渡した。
ひとつ千円にも満たないハンカチとありきたりな言葉にもひどく喜んでくれる。
「明日サンダル買いに行くときに持ってくわ」
そう言ってから、ハンカチを猫に見せびらかしにいく。
そんなあなたがわたしはだいすきです。


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