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若者の死はなぜこんなにも悲しいのか

映画やドラマで描かれる死の多くは、美化されている。と思う。

美化されていないものでも、悲痛さやグロテスクさが誇張されて、どこかポップな感じがするものが多い。

それに、死が物語の主軸になることはあまりなくて、大抵は「誰かが死んだ後も強く生きる主人公」みたいなものが描かれる。

それでも、本当に死を知らないうちの私は、

画面の中の死に悲痛な感情を抱いたり、時には泣いたりして、

「身近な人が死ぬことはこんなに辛いことなのか」と思っていた。


今思うと、少し甘かったな、と感じる。


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祖母の飼っていた16歳の芝犬や、3年ほど会っていなかった祖父の死だって、もちろんすごく悲しかった。

だけど、どこかで「誰しもいつかは死ぬんだな」という諦めのようなものがあった。

葬式でも、みんな悲しんではいるが「いい人生だったよ」というようなことを言っていた。

「悲しいけど、そんなもんだ」という感情が私以外の人々にもあったのではないかと思う。

しわの刻まれた、眠っているような祖父の顔は、「安らかに」という言葉がしっくりくる様子だった。


でも、本当に死というものを理解したのは、同年代の友人の死だ。

この世界には、どれだけ願って、あがいても、10代や20代で亡くなってしまう人がいる。

私の友人は不慮の事故だったが、自分で死を選んでしまう人も、病気で亡くなってしまう人もいるだろう。

彼らの死は、祖父の死よりも、ずっと悲しい。もちろん祖父の死も悲しいのだが。

悲しいというより、衝撃がとても大きい。

自分が友人の死に感じたことを、ようやく整理できるようになったので、若者の死がどうしてこんなにも悲しいのか、書いてみることにした。

そのことに、どんな意味があるかはわからないけど。


まず、単純に、二度とその人と会えなくなってしまったという悲しみがある。

これは祖父の死とも同じで、この先も長く生きていく(であろう)自分だけが、取り残されてしまったという、寂しさ。

まだ一緒に思い出を作っていくことを想像していたのに、それが叶わなくなってしまったことの無念さ。

そして、友人と、「将来どんな風になるんだろうね」と様々な期待を抱きながら冗談交じりに語り合ったことが、

幻になってしまったこと。

幻という言い方が正しいのかわからないけど、友人の将来を私が見ることも、私の将来を友人が見ることも叶わなくなってしまった。

そして最後に、一番大きいと思うのは、

自分も、いつかは、というより明日にでも、友人のように動かなくなってしまうかもしれないということへの、恐怖。

友人の死に対して抱く感情の中で一番大きいのがこんな自己中心的な感情であることがすごく悔しいけど、

実際そうなのだ。

あの子の人生は幸せだったのだろうか。
死ぬときの痛みはどんな感じなんだろう。
痛かったんだろうなぁ。
今どんなことを考えているんだろう?
最後に会った時、もう少し大切に別れておけばよかった。
自分のことを見ていてくれるだろうか?

自分は、
自分は、あの子のようにみんなに楽しい思い出を残してあげられていないんじゃないか?
自分が今突然死んだら、こんなに悲しんでくれる人がいるのだろうか。
どうやったら悔いのない人生を送れる?


むちゃくちゃ独りよがりで、恥ずかしい。

いつかはこんな独りよがりな感情はなくなるんだろうか。

それとも、どこまでいっても、やっぱり自分が死ぬことを想像して、苦しくなるんだろうか。

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いつも8月の終わりが近づくと、「若者のすべて」を聴きたくてたまらなくなるのですが、

フジファブリック志村さんの死や、友人の死があってからは、

この曲がより一層深く響くようになったな。


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