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「出自のなさ」について

生まれたところも、育ってきたところも、神奈川にある東京のベッドタウン。

湘南エリアのように、海が見えるわけでもない。

観光スポットなどない。

それでも、生活には全然困らない。

バスは10分に1本来る。コンビニやスーパーもたくさんある。

都心へのアクセスもそれなりに悪くない。


何ら変哲のないこの街は、自分とすごく良く似ていると思う。

可もなく不可もなく、強烈な存在感のない自分。

出自に対するアイデンティティがないことは、ずっとこの先もコンプレックスとして残っていくだろうと思う。

ずっと、出身地にアイデンティティのある人がすごく羨ましかった。

出身地のことが好きだとか、懐かしいという人ももちろん羨ましいし、地元のことが強烈に嫌いな人も。

自分は出身地に対して、本当に何の感情もない。

不便だとも思わないし、悪いところだとは全く感じないが、

これといって好きなところもない。

不思議なくらいに、無感情なのだ。


もうすぐ終わってしまう「平成」も、そんな時代だったのかもしれない。

自分が年を取ったときに、「昭和はよかった」と言う人たちみたいに、「平成はよかった」と言えるだろうか?

「昭和はよかった」という人達に「いつまでも昔を引きずっている」と批判する若者は多いけれど、

昔を懐かしみ、美化する感覚って人間としてすごく全うなことなのではないかと思う。

果たして、自分は今のことを懐かしみ、「あの時はよかった」という感情になることはあるのだろうか?


強烈な上昇気流もないけど、そんなに生活に困窮しているわけでもなくて、

だけど暗いニュースはずっと流れている。

なんとなく、寂しい。

孤独感が増している。

折坂悠太の『平成』というアルバムを聴いて、

なんとなく、そんなことを考えた。


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