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"アドバイス"と称された価値観の押しつけ -Adoの「うっせえわ」を考える-

今更 Adoの『うっせえわ』?ブーム去ってない?と思う方も少なくないのかもしれないが、この曲は「たまにふと思い出して聴きたくなる中毒性」を持っている曲だと思うので、ここではあえて取り上げたい。

というか個人的にこの曲結構好きなだけ。私は中高生の頃は特に顕著に「大人が嫌い」というタイプの人間だったので、大人への反逆心が歌われた曲(『サイレントマジョリティー』とかもそうだけど)はまぁまぁ好きである。

まだこの曲を聴いたことがないという方、曲は知っているけれど下の動画は見たことがないという方はとりあえず再生してみてほしい。

そして絶対に最後の最後まで聴いてほしい。歌詞(歌唱)が終わったところで動画を止めるのではなく、残り0秒になるまで映像を見ていてほしい。



お気づきだろうか。

「うっせえわ」と叫んでいる女の子が持っている銃。
最初は大人に向けられていてる。

でも最後に銃を向けられているのは、彼女自身なのだ。
彼女に照準が定められている証拠に、彼女の額に赤い点が出現している。

これはどういうことを意味しているのだろうか。



私はこういう風に考えている。

「自分もいつか、そういう(銃を向けられるような)大人になってしまうかもしれない」
あるいは
「過去に大人が嫌いで反逆心を唱っていた自分も、"そちら側"の立場に もうなってしまったのかもしれない」


銃を向ける立場、つまり子供であった自分。
でも今は、銃を向けられる立場、つまり大人になった自分。

いつの間にか自分は銃を向けられる人間になってしまっているのかもしれない.....と、考えているのだろうか。
私自身、そうなってしまわないか恐れているし、気をつけてもいる。

自分が子供の時に"嫌いだった大人"に、自分がなってしまわないように。
子供の頃に抱いていた大人に対する違和感や怒りを、忘れてしまわないように。

成長するにつれて、大人に抱いていた反逆心の原因が「未熟な(子供の)自分にあった」ということに気づかされることもある。大人を一方的に悪としていたことは、間違っていたと思うこともある。

でも全部が全部そういうわけではないし、「大人はいつだって正しい」なんて思い込んでしまうとの危険性は大きい。
違和感やおかしいと思うことに対して逃げるくらいなら、「どうして?」と大人を疑っていくことをしていくべきなのかもしれない。



「アドバイス」と称して価値観を押し付けてくる大人が私はとても嫌いだ。ただこの「教える」ということにおいてそのラインは難しい。一見相手のためを思って伝えていることでも、相手にとっては自分の価値観を否定されているように感じるだけ.....なんてことはよくあることだろう(と、思っている)。

だからこそ私も気をつけたい。相手のためを思って伝えていることは、本当に相手のためになっているのかと。
もう半分くらい大人になってしまった自分は、子供に理想とされるとまでいかなくても、"まともな"大人くらいにはなれているのだろうかと。



大人を嫌っていた私もだいぶ大人に近づいてきてしまった。子供の教育について考えることも多くなった。

過去の自分に尋ねたい。今のワタシは、過去のワタシが嫌いだった大人になってしまっていないだろうか?と。

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