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ずるをしてでも戦いの場に挑んだ事が"偉い"のか?

っていうことを今日は少しだけ書く。元ネタは漫画だけれどね(笑)。

ずるい、ということについて

いきなり本編に入る前にあえて少し話を逸らすのだけれど、
就活の時などに受けるいわゆる「性格検査」と呼ばれるテストの質問の中に、このようなものはなかっただろうか。

「あなたはズルをしてでも成果を出す事にこだわりますか?」
「時にはズルをしてでも成果を出す事が必要だと思いますか?」

みたいな。
私はこういう時「ズルの度合いによるでしょうに」と思ってしまうので、5段階だったらいつも3を選んでしまうのだけれど、、、。

誰にとって(会社?上司?自分?顧客?顧客のその先のユーザー?日本国民?)それ(=成果を出すこと)が良い選択なのか、という問題になってしまうような気がしている。


とはいえ私は、小さい頃から学校と呼ばれる場所で
「ズルをしてはダメ」と教わってきたような気がする。画面の前のあなたもそうではないですか?
小学校の頃、「ズルしちゃダメなんだよー!」という同級生の声を耳にしたことはないだろうか。
そのくらい、「ズル」は悪だとされてきたように思う。

大人になるにつれてそういう意味での(子供の時に使っていたような意味での)「ズルい」は使わなくなるのではないかと感じている。
イメージは「ズルい」が「ずるい」になる感じ。
大人になってから思う「ずるい」は、
ずる賢いけどそういうずるさも必要という場合とか.....。(例えば大学でテストの過去問やWEBテストの回答を特殊ルートから入手する人[そういう人脈がある人] がずるいって言われたりしない?)
あるいは恋愛におけるずるいとか....。(沼から抜け出せないやつ。)
だんだん「ずる」をしてでもうまくやる、その場を切り抜けられる人への尊敬が増すような気がしている。



本題

話をタイトルの問いに戻す。

ずるをしてでも戦いの場に挑んだ事が"偉い"のか?

これは「戦い」が何かによる、という議論はさておき…..。
ずるをしてでも誰かに勝とうとする人は、最初から逃げて ステージに立とうとしてない人よりも偉いのだろうか?
ということを問いたかった。

ずるをしてでもステージに立ち、成果を追い求めること。勝ちにこだわることが大事なのか。
それとも、ずるをしなければもう勝てない、1番にはなれない.…と思った時、最初から身を引くのが後になった時 自分のためになるのだろうか。


これは挑戦しようという気概があるのか?ということ以前に、
「ズルをしたことにより生まれる後悔がどの程度か?」によると思っている。
ズルをすると、なんとなく後味が悪いんだ….たとえ買ったとしても.…というふうに考える人は(正解不正解などない)、きっと最初からステージに立たないという選択をした方が、幸せになることができる。


だから少しずるをしてでも戦いの場に立って正々堂々そこに居ること。
それは別に、偉いことでもなんでもないのだろう。あくまでこれは、第三者から見た時の話かもしれないけれど。


どうしても叶えたいことがあって。どうしても成し遂げたいものがあって。そのためには手段を厭わない
ー こういうのは、「悪の正義」になってしまうのだろうか。
自分の信念を貫くためにズルをしなければいけない場合、貫くのはそんなに正しくないことなのだろうか?

なんの正義も貫けず、戦いに挑むことを放棄して逃げてしまう人の方が、ダメな人間のように見えてしまうこともある。
負けてしまうのではないか、一生懸命やってもダメなのではないか.…という感情に押しつぶされてしまいそうになった時、
この人は「悪の正義を貫ける人」より偉いともなんとも言えないけれど、道理に反することをしていなくて偉いとも言い切れないのかもしれないけれど、
確かに言えるのは、この人は"弱い"ということだけなのかもしれない。

あくまでこれ(逃げること)を繰り返すたびに弱くなる、という意味で
挑戦しない人=弱者、とは1ミリも思っていないわけだけれど。




後悔はどの程度か、かっこ良いかどうか

ズルをしてどの程度後悔しそうか?で決まるというようなことを書いたけれど。
誰を(どんな人を)かっこ良いと思うかで、憧れで、自分の行動の半分くらいは決まっているかもしれない。

多少ズルをしてでも自分の目標を達成し、信念を貫き何かを成し遂げた人がかっこ良いのか。
正攻法で自分の夢を追いかけ続け、道理に反しない行動だけで正義を守り続けて、目標に辿り着いた人がかっこ良いのか。

本当にこれは、人によるんだろうなぁ。

守らなくても良いルールはあるのか?という話に寄って行ってしまうかもしれないけれど。

この辺で終わっておこう。