幸せでいてね

人がほんとうに前を向こうと思う時は、
自分にご褒美をあげた時でも自己啓発書を読む時でもなく、ただの愛情に触れること、それだけだと思う。

なんの見返りも求められない愛というのがこの世には確かに存在していて、それを知らずに生きてゆく人だってきっといるのに、わたしは充分知りすぎてる時点で不幸で居続ける権利はないのだ。

亡くなったおばあちゃんは、死ぬ前の1ヶ月、ずっと私と弟に会いたいと言っていたようだった。
送ったお見舞いの花束は私たちを思い出し悲しくなってしまうから、と部屋の外に置かせた。

わたしはそんなに想ってもらうほどの何かをしてあげたんだろうか。
わたしはただ孫として生まれて時々遊びに行っては、文字通り家で遊んでただけなのに。

真面目で心配性な人だった。
子供3人と義母、夫のいる家で家事をしながら国家資格をとって、私が小学生の頃まで仕事をしていた。

そして堅実で質素な生活をしてきた。

漠然と「将来のために」と貯蓄をする人を鼻で笑ったり、安定的な道を選び多少の辛いことがあっても我慢する人を訝しんだりする人もいるけれど、
「地に足をつけて人生を歩む」ということは本当に尊く、誰にでもできることじゃないと、おばあちゃんの人生を見て思う。

そしてその恩恵を受けてしまうのは
他でもない、のこされた私だ。

おばあちゃんとおじいちゃんがつくったなんの変哲もないけれど堅実な家庭で、平凡だけど安心できる愛情を受けて育った母からわたしは生まれた。
そして母もまた私をなんの変哲もなく育て上げてくれたのだ。

それから、おばあちゃんが人生で得てきた物理的な、おかねだって、多少は私のものとなってしまう。

お金とは時間で、時間は命だ。

わたしはおばあちゃんの堅実な人生の、命のお裾分けとして、少しおかねをいただいてしまう。

一体なんのお金なんだろう。

お金を手に入れることは、地味で、泥臭くて、ものすごく現実的なはずだ。

なのに孫だというだけで、ただそれだけで貰えてしまうこのお金は一体なんなんだろう。

半年くらい前、おばあちゃんと電話した時に言っていた、
「幸せでいてね」

わたしは、おばあちゃんから受け取ったもの全てのために、それらを活かして、
幸せにならないといけないのだ。

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ほんとうに前を向こうと思う時は、
ほんとうに自分ではどうしようもない時だ。

自分を立ち直らせようとする気力も、自分に対しての愛情も湧かずただ燻っているだけ。自分をいくら肯定しようとしても、そんな自分が嫌いなのでうまくいかない。

そうなった時、「幸せでいてね」と誰かが願ってくれてはじめて、その人のために立ち直ろうと思える。
ほんとうにどうしようもない時は、
自分のためじゃなく他人のために初めて動きだそうと思える。

わたしは、そういう「幸せでいてね」を誰かに言えるほどの人になれるんだろうか。
自分の子供や、産まなくても世の中に、受け取ったものと同じくらいのものをきちんと返せてゆけるんだろうか。

そんなことを考えながら忌引き明け通勤電車に乗った。


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