自分たちでつくる「おもしろい椎葉村」
今回お話を聞いたのは、椎葉村で蕎麦屋「よこい処しいばや」と、菓子店「菓te-ri(カテーリ)」を営む椎葉昌史(まさふみ)さんです。
昌史さんの商品づくりの特徴は、宮崎県産の食材にこだわっていること。
ネットお取り寄せでも予約待ちが出るほど大人気となっている「宮崎バターサンド」や、令和2年度優良ふるさと食品中央コンクールで最高賞の農林水産大臣賞を受賞した「九州山蕎麦」を生み出した、椎葉を代表する気鋭のヒットメーカーです。
そんな昌史さん、元は東京で働いていたUターン者でもあります。
なぜ東京での職を捨てて椎葉に帰ってきたのか、そして今、事業者として椎葉の未来をどう描いているのか、お話を伺いました。
Uターンのきっかけは、祖母の死に立ち会えなかったこと
もとは東京の大手飲食チェーンで、店長まで務めた昌史さん。業績は社内トップクラス、仕事ぶりは順調そのものだったそう。
しかし、昌史さんの祖母が亡くなったことがきっかけで、自分の生き方に疑問を抱くようになりました。
「池袋の新しいお店がオープンしますっていう2日前に、ばあちゃんが亡くなっちゃったんですよ。でもオープン日に店長がいなわけにはいかないって思って、帰らなかった。それを今でも後悔してて。それがきっかけで、家族の事とか考えるようになって。毎日めちゃくちゃ働いて、それで何が残るんだろうって」
「30歳の時にここ(よこい処しいばや)が蕎麦屋をやるってなったから、帰ってきました」
元々よこい処しいばやは、化粧品や薬を販売するお店だったそうですが、経営不振の中で大きく方向を変え、蕎麦屋に転進したことは、昌史さんにとってまさに人生の転機だったと言えます。
余裕だと思っていたけど…
よこい処しいばやを人気店にするべく、椎葉に帰郷した昌史さん。
東京での経験もあり、当時は「余裕」だと思っていたそうです。
しかし、現実はそう甘くはありませんでした。
「ここでも、美味しいそばを出せば行列ができるって思って、3年間頑張ったんですよ。でもそれだけじゃあまり響かなくて」
そばを挽く機械を購入したり、そば打ちを見学できるように店内を改装したりと、様々な設備投資に取り組んだ昌史さん。また、自身でそばの栽培も行いました。
しかし結果は芳しくなく、椎葉村という商圏において飲食店一本でやっていくことの厳しさを痛感したと言います。
「東京にいた時は、マーケティングはマーケティング部の人がやってくれたし、集客はビルがやってくれたんですよ。でもこっちでは、全部一人でやんなきゃいけないんで。東京では成績がよくて、何でもできるって思ってたけど、実は一人じゃ何も出来なかった」
椎葉に帰ってきたことで、改めてこれまでの自分を見つめ直すことができ、見える世界が広がったそうです。
椎葉からヒット商品を!
自身が結婚したこともあり、家族を守るためにも自分にできることは何か、考え続けた昌史さん。
もっと広く椎葉を知ってもらうため、椎葉から人気スイーツを生み出したいと一念発起し、菓子製造に乗り出します。
試行錯誤する中では失敗も多かったそうですが、蕎麦屋ならではの発想から生まれた「そばの実フロランタン」の反響を受け、菓子店「菓te-ri」(カテーリ)をオープンすることに。
そんな折に訪れたのが、このコロナ禍。お菓子の売り上げは激減しました。
新店舗オープン直後でどん底の中、なんとか生み出したのが新商品「宮崎バターサンド」でした。
SNSでの情報発信やクラウドファンディングなどをうまく活用した成果もあり、これがまさかの大ヒット。
全国から注文を受けられるよう、すぐにネット販売の環境も整えました。
続いて、世界農業遺産に指定されている高千穂郷・椎葉山地域の5つの町村の特産品を活かして考案した「九州山蕎麦」が農林水産大臣賞を受賞するなど、昌史さんの勢いは止まりません。
それは、コロナ禍に諦めることなく、むしろそれを逆手に取って、全国の消費者がおうちで楽しめる商品を、おうちにいながら注文できる仕組みづくりをし、SNSなどを駆使して絶え間なく情報発信し続けた努力の賜物でした。
村の現状は厳しい。それでも、未来は明るい。
こうした精力的な活動の中で、椎葉村外の自治体に目を向ける機会も多い昌史さん。
椎葉村を変えていくことの重要性と、難しさについて伺いました。
「地域を変えるために何かやったとして、明日変わるわけじゃないじゃないですか。本当に変えていきたいのなら、知識が必要。椎葉村の財政の問題とかを知らない上では、何も言えないから。ただやっぱり、盛り上がっている外部のいろんな自治体を見てる人がいないと、遅れていってしまうと思います」
そして、民間企業の在り方については、こう語ります。
「『行政にどうにかしてもらいたい』という行政頼りの民間であってはいけないと思っています。年齢関係なく、自分でこの現状をどうにかしていくという気構えがないと、行政の人たちも僕らを応援しづらいと思うから」
また、椎葉の未来へ、大きな期待もあるようで、
「若くて、地域から持続可能な仕事を作り上げてきてる人たちが、今の椎葉にいるのがすごくいいなって思っていて。情報交換して、いろんな商品作って、もっと良くなっていったりしてるんで。その流れが続いていって、おもしろい椎葉村になっていくのがベストですよね」
今の時代のキーワードとも言える、「持続可能」な仕事、地域、人とのつながり。
全てにおいてバランスよく保っていける未来の形が、きっとあるのではないかと予感させるような力強さを感じました。
まとめ
東京での仕事から一変し、様々な分野について学び、挑戦する日々の昌史さん。
しかし、昌史さん自身がそんな苦労も成功もひっくるめて、とても楽しそうに語っていたのが印象的でした。
椎葉村の未来。
それは自分たちでつくるもの。
そんな強い意志をもって笑顔で突き進んでいく昌史さんの姿に、元気づけられ、勇気をもらい、新しい椎葉の未来を描く人が他にもきっと現れる。
そんな可能性を感じています。
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