飽くまで語れば、書けば、「もう慣れた」になれると思っていた。





解離性同一性障害を自覚してから早、一年と半年以上が経った。




当初は「自分がまさか多重人格者だなんて?」と現実を受け入れられなかった。いや、今も尚受け入れきれてないふしはあるのだが。

思考を死ぬほど回し、そのせいでカロリーをうんと使い、数日間で体重は数キロ減って、久しぶりに30キロ台になってしまったりした。

きっと一年、二年と経てば自然に受け入れられるのだろう。慣れもするのだろう。もっと幅の広い見方が出来るようになっているのだろう。
そう信じた。


だが、全然甘かった。



”慣れ”なんていつ来るんだよ?という程に、今も全然慣れというものを感じられない。


性格が変わったり、
人間性が変わったり、
味の好みが変わったり、
食べていたはずのものを「自分は食べていない」と感じたり、
A人格からB人格に交代しただけでA人格の抱えていた重い頭痛があっさりと治まったり、
眠気がパッと取れたり、
恋愛対象の性別が変わったり、
好みのタイプが変わったり、
外見をどう装いたいかの所謂美的感覚が変わったり、
人への接し方が変わったり、
コミュニケーションの基本姿勢が変わったり、
目の前の事象に対する熱意に大差が出たり、
これでもかというくらい熱くなっていた気持ちがサッと冷めたり。



人格交代は不思議なことばかり起きる。



自分と同じく解離者の友人は「慣れるまで数年かかるから、そんなものだよ」と言っていた。



数年か。



一年、二年なんて過ぎてしまえばあっという間に感じるし、「早かったなあ~」なんて思ったりする。


いや、思ったり”していた”。



解離症状が明確に自分の人生に絡まってきてからというもの、それまで以上に一生懸命で、必死になった。


時間の流れの体感もそれまでより明らかにスローペースになった。


何故か?それは、表に出ている人格一人一人が自分の時間を貴重なものと捉え、惰性な部分が結構削れたからだ。

時間は無為に消費できないものなのだと、認識が改まったからだ。




また発覚した当初の話をすると、とにかくプレッシャーが凄かった。

「自分には多重人格者なんていう立場を背負えるんだろうか?」

考えただけで、何かを想像しただけで心が少し疲弊した。



解離性健忘や解離性遁走が起きたらどうしよう?どう対処するようにしよう?
人格の誰かが危うい立場になってしまったらどうしよう?
他の人格が失言してしまったら自分はどう責任を取ろう?


不安感は尽きなかった。



人格統合をして人格を一つのみにする生き方をした方が、うんと楽なんじゃないか。
そうとも考えた。


だが、悩んでも大変であっても、記憶の保持が一時的に難しくなることがあっても、複数の人格を持つ人間として生きると、結果的にそう選択した。



少しショッキングな言い回しを含んでしまうのだが、俺にとって人格統合はある種の自殺や人殺しに感じることがある。


自身の方向性を貫くにあたってやむを得ず人格統合を目指したり、「それをしないときっと生きられない」と賭けのような選択肢で人格統合を選んだり、統合こそ幸せだと感じる人がいたり、色んな人がいて、色んなパターンがあるのはわかっている。わかってはいるんだ。



でも、でも。



他の人格の発言に腹が立つことがあっても、意見が衝突して喧嘩になることがあっても、分かり合えない苦悩を抱えても、解離症状で落ち込んでも、ぶつかり合って「もうダメだ」と思うことがあっても。



ほかの人格を消してしまうのは、嫌だった。
寂しかった。
こいつらがいなくなるのが。
俺が俺でなくなってしまうのが。
怖かった。



きっとこれからだって悩むことは絶えない。
でも、いいよ。そんなら、死ぬまで悩んでやるよ。
俺のために。こいつらのために。
人格が複数のままであっても、幸せを見つけてやる。



十何人の、数字たちでこれからも生きていこうよ。
俺たちは、俺たちだよ。
取り合える手はなくても、心で手を取り合っていよう。



俺は、お前たちを失いたくないよ。
これからも、ずっと一緒にいよう。

「もう慣れた」なんて言えなくても、いいさ。
それはそれで、また、俺たちの一つの形だろう。








読んでくれてありがとう。
久々のテキスト記事、なんだか緊張したな(笑)

よかったらまた読んでください。

今、あなたがこの文字に触れてくれていること、俺はとても幸せに感じています。





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