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07:前兆を見逃すな

かの有名な『アルケミスト』。
ついに手に取って読んでみた。
2時間くらいで読んだが、もっと時間をかけて読みたい。
何度でもページを繰りたい。
読んでいて浮かんだ光景を絵に描きたい。


旅に出る、大いなる魂を求めて

安野光雅の『旅の絵本』が好きだ。

『旅の絵本』に惹かれていた自分を遠くに置いてきてしまっていた。
そんなことに随所で気がついた。
少年の名はサンチャゴ。
でも、小説の中で少年は「少年」という呼称で登場することの方が圧倒的に多い。
まるで読者が自分を重ねるのをわかっているかのように。

読んでいる間、自分は遠いアフリカにいた。
どことも知れない露店のひしめく埃っぽい日差しの中にいた。

ジブリのゲド戦記の中に登場したこの壊れた街にいるような気もした。
訪れたことのない砂漠の上にもいた。
オアシスに吹き抜ける風を感じさえした。

なんと豊かな光景が広がっていることだろう。
あとがきを入れても、199ページ。
200ページに満たない本の中になんと多くの叡智が詰まっていたことだろう。

少年は旅に出た。
大人になる過程の旅、自分探しの旅、そんな旅の名称はチンケだ。
もっと崇高でもっと冒険に満ちて、それでいて青い鳥を探す旅のような身近な旅である。
大いなる魂を求めて。

すべてがつながっている

たった一人の人に世界は書かれている。
ファティマ(砂漠で知り合った少年の大切な人、決してドラマスペックに登場するファティマと同じ雰囲気で思い描いてはいけない笑)が、砂漠を見つめる。
ファティマにとって、少年と出会うまで砂漠は「あこがれ」だった。
少年と出会ったあと、少年を待っていると決めて見送った後、砂漠は「希望」になった。
なんと勇気づけられる小説なのだろう。

夢を、心の言葉を知りながら、夢を追わない、旅に出ない。
そんな人は多くいる。
そんな大人の方が多い。
私もそうだきっと。

夢を追わない、覚悟のない男たちと一緒にいることをなんとも思わない女のなんと多いことか。
(ごめんなさい、自分にブーメランだし、世の中の誰かの批判ではないです。それに男女だけがパートナーとなりうると思って書いているわけでもありません。ただ、こういう表現をしたいのです。)

少年が自分を風に変える時、太陽まで登場するとは思わなかった。
けれど、太陽は必要な登場だった。
太陽の後に登場したものも、突拍子もなく登場したわけではなかった。

何の宗教がベースの人も受け入れやすい要素に溢れている。
そんな意味でもすべてがつながっている。

夢の物語=愛の物語?

夢を追って旅をする話。
子どもが読むよりも、大人になって読む方がぐさっとくる話。
そんなイメージの本だった。
読んでみて変わった。
子どもが読んで、大人になっても何度も読み返す、時代と世代と地域を超えて読み継がれる話。

夢を追っている少年の話だと思っていた。
淡い恋も出てくるが、結婚も出てくる。
メインはそこではない、なんて思っていた。
でも。
一冊読み終えて思うのは、風になろうとした少年と太陽のやりとりを読んでわかったのは、壮大な愛の物語でもあるということ。

ただ、待つのではない愛がある。
待っている人がいることすら忘れるほど、深い信頼で突き進む男がいる。

すぐ戻るよ

エピローグが美しかった。
エピローグだけ、読み終わってすぐに読み返した。
ピラミッドは美しいのだ。
ファティマの想いはちゃんと風に乗るのだ。

またすぐ会えるよ。
私にそう言って慰めてくれた人がいた。
ああ。
このことなのかな。
旅立っていく覚悟。
置いていくことすら忘れる覚悟。

目はその人の魂の強さを表す。
強い人がすぐそばにいる。
慰めてくれる人と強い人。
それ以上に会いたい人。

ファティマをなぞってみたい。
少年に風を送るのだ。
私も。

前兆を見逃すな

私に訪れた多くの前兆。
今日も見逃した心の声。
毎日が永遠で永遠こそが毎日、というような表現が本文にもあったっけ。

今日、買い物に出掛けて買い物リストを消化できなくて、自宅に1番近い店で最後のリストを消化したのも前兆かもしれない。

ここは砂漠ではない。
ぶどう酒を飲まなくとも、好きな飲み物を飲める。
いくらでもお湯を沸かせる。
ただ、私にとってここは砂漠のように厳しい時がある。

ここは少年を3度襲った泥棒も少ない。
けれど、私の金に当たるものを奪っていくのは自分かもしれない。

少年の背負った孤独を私は現実で、
現実の旅する彼の孤独を分かち合う女でいたい。

すぐ戻るよ
遠くで聞こえる。

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