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1、氷河期世代のお仕事遍歴 私の場合

前回のお話「生き方が変わった出来事」でお話した阪神淡路大震災の後、私の実家は全壊認定、近所にあった祖父母の家も全壊し、実家を建て直すために大工さんたちの順番待ちが2年ほどかかるとあったので、避難所での就職活動をしていました。
とはいえ就職以前の問題で、まず残った家財をなんとか瓦礫の中から取り出し、どこかへ保管しておく…と言って、雨風の凌げるトランクルームなどももちろん満杯。
仕方なくブルーシートを被せるだけで、瓦礫で作ったすのこ状の物の上に置くだけでしたから、中はカビたり色々でたくさんのものをダメにしてしまいました。仕事に行くにしても着替えが必要だし、取り急ぎの服はダメにすまい…と、一部の洋服をプラスティックの大きなボックスに入れて、建物が無事だった友人の部屋に服だけ避難させてもらったりもしました。

後には祖母がなんとか当選し、入居した仮設住宅に私も一時的に入らせてもらったりなどもしましたが、結果的に家族全員は住めませんから、大きな体育館のマットの上が我が家となりました。
今も、同じような状況下で就活したり、受験したりという子たちが居るのだと思います。
その方たちが私と同じような道を辿るとは限りません。自分の望みを最大限に叶えてもらいたいと願うばかりです。

さて、そんな状況からスタートした、私の「お仕事人生」についてです。

避難所からの就職

夜明けの震災から、もし、地震が起こっておらず、その続きの人生を歩んでいたとしたら?と、今考えてみても、そう大して変わらない道のりを歩いたかもしれない。と感じています。

震災は、私の中の「生きる」とか「命の意味」みたいなものには大きく問いを投げかけたものの、目の前にあるものとどう対峙すべきか?という判断基準までを授けてくれたわけではありません。

震災の経験で変化した以上に、ずっと長らく人から虐げられて生きて来た、愛情を渇望し、親や友人からの愛情に飢えて生きて来たことの方が、より大きく私をかたちづくっていたのだと後になってから気づきました。
当時はまだ「渦中」にあったので、自分を客観視するという概念すらありませんでした。
それが故、私はきっと(今もだと思いますが)同世代の人たちより思考が おぼこ*1 かったと思いますし、その思考でものごとを選択して社会を生きるには、知恵がなさ過ぎたとも感じています。
(*1 関西弁で言うところの「幼い感じがする」とか「子供っぽい」とか「実年齢に追いついていない」様相)

ただ、その分余計に、時代の恩恵があるかないか。も、影響の大きなものだったと感じています。
氷河期世代ではあったものの、「フリーター」という言葉が流行り(それも世の中の大人の都合だったと思いますが)正社員でなくても(とりあえずの)仕事はある。
それを逆手に、当時の私は楽しんでいろんな仕事に乗り換えて働いてはいました。
職の数は結構あり、学生時代から続けている長期の仕事、季節限定の仕事、週末だけの仕事やイベントがある時だけの仕事など常に2〜3つ掛け持ちをして、当時は税金を大きく取られることもありませんでしたから、収入だけはあり、学生ながらも中古で買って自分の車も持っていました。

それでも毎回仕事を探す手間などもありますし、単発で募集される時給以上にステップアップすることはない。そこを鑑み、将来のためにと「社員登用」狙いで長期アルバイトに応募しました。
正確には震災前に応募も面談もテストも終わっていたのですが、応募先企業と連絡が取れないとか、通勤?とかどうするの?とか、色々と想像がつかない!というところが、当時、避難環境下での悩みの種となりましたよね。

バイトに明け暮れたフリーターから会社員へ

時を戻して震災当日。朝から日帰りのスキーに行く予定の私でしたが、まずはそれをキャンセルしなければならない。と言っても、その待ち合わせ相手は大阪に居たので、どうやって連絡するか?家の電話はもちろん使えない。携帯電話も限られた人しか持っていない。公衆電話は長蛇の列。時はポケベル時代です。
電話の列を待つより、まず今夜をどう過ごすか?寝る場所の確保と、祖父の遺体を今後どうすべきか?
相手にはすぐに連絡はできなかったものの、あちらも当然、行ける状態じゃないことは察して余るでしょうし、安否の確認が伝えられないことは申し訳なく思ったものの、急ぎではないと判断して被災当日は諸々の連絡を後回しにさせてもらいました。

ですが、震災前に応募をして試験も受験済みだった件の仕事。
震災直後はもちろんそれどころではなかったものの、震災でさらにお金の面は必要になりますし、フリーターを辞めて就職しようと思っていたので、その合否だけは知りたい!と数日後に思い出しました。
合否の連絡がいつ出るのだったか、電話か郵送の予定だったかももう忘れてしまいましたが、郵便物はおそらく届かないだろうし、電話もこちらにはかけて来られない。私から会社に連絡をしなければわからないので、それだけは!と、発災から数日後、長蛇の列を待って会社に電話をかけました。

実際に合格していたのか、震災で困難だろうからという恩恵だったかはわかりませんが、無事に合格と伝えていただきました。
ただし、いきなり「明日から出社してね」というわけにも行かないので、落ち着いてからで良いと言っていただき、まずは1ヶ月前後、出勤できる体勢を整えよう。ということになりました。

震災を除いたにしても、バブル崩壊後の短大出のフリーターです。学校は就職支援も目立ってないような女子校で、同級生の大半はみんな花嫁修行的に家事手伝いに入るような学校でした。新卒採用なんて意識したこともありませんでしたが、私が卒業した頃はまだ、バブルの匂いが世間に残っていたのかも知れません。
新卒採用関係なくアルバイト採用から契約社員、正社員とステップアップする企業への就職でしたが、採用されてホッとしました。

その後、実際に会社へ行けるようになるまでに、祖父の火葬と葬儀を経て、出社準備をする中で避難所生活に適応できずに体調を崩し、それでも当初は避難所から通っていたのですが、ある日の出勤前に避難所で倒れ、結局入社直後から会社が確保していたホテルの避難部屋に入らせてもらう手続きをしていただき、そこで体調を整えるなど、合否確認から約1ヶ月ほど経って、ようやく避難部屋からの通常勤務開始となりました。

当時の会社には感謝ばかりです。本当にありがたかったです。

(ちなみに、避難所での暮らしは、ダンボールで仕切ったスペースの中で着替えを済ませて会社へ行く。という感じでしたが、体育館だったので2階席やステージ上にいる人たちからは丸見え。なので、服の中で服を着替えて上になった服を脱ぐ。みたいな、冬の寒い時にやるみたいな着替え方をしていました。更衣室というものがまだできていなかったので、ガラーンとだだっ広い体育館のマットの上に全ての生活があるような感じでした。埃っぽすぎて急性喘息の発作を起こしたりしていました。)

"まだ" 体感のなかった氷河期世代の影響

なんだかんだありながら社会人生活のスタートを切った私でしたが、フリーターの延長みたいなもので当時はそんなに長期的な展望もなにも持たず、ただただ仕事の全てが目新しく新鮮で、楽しくて仕方がありませんでした。
そもそもで就職課のような窓口が学校に存在していたのかどうかさえ記憶にないような学生時代からフリーターへそのまま突入したため、氷河期就職難ということをまったく意識していない学生時代。
当時は派遣法もありませんでしたから、アルバイト情報誌には直接企業の募集が掲載されていて、自分で好きな仕事を選んで応募して、採用されたらその仕事をして、契約期間が終わったら終了。また次の仕事に応募して…。と、短期のアルバイトも多く、いろんな職種の仕事を経験するのが楽しかったものです。
パン屋さんのアルバイトなどは学生時代から長期で3年ほど働きましたが、就職で長期勤務する感覚と何が違うのかを当時の私はあまり深く考えていなかったかも知れません。
(福利厚生などという概念を知らない無知なお子様時代…)

今考えると、会社員とは、企業の一員として"企業の叶えたいこと"を成し遂げるため、従業員として持てる力を発揮し、提供する。その対価をいただいて、自分の人生に還元するようなもの。と思うのですが、当時の私は目の前の新しい仕事を習得し、自分の身にしていくことだけでただ時間が過ぎていきました。

先輩方はバブル期に仕事をして来た人たち。まだ社内にはその空気も残っており、業績がバブルで弾けるような業界でもなかったので、私のことを”震災に遭った子”ということを知っている人たちが色々と良くしてくださいました。
体調が整い、会社の避難部屋を出て地元避難所の体育館から通うようになってからも、お弁当を持参するなど自炊ができる環境にもない。でも、色々と物入りで、アルバイトで稼いだお金などはすべて両親に渡してしまっていたので、会社のお給料が出るまでの日々、避難所で配られたお弁当を持参したりしていた私に、いろんな人がランチをご馳走してくれました。暖かいご飯はチカラになりました。
自分も1ヶ月も経てば、給与をもらい、家は体育館だけど安定した生活を送っていけるものなのかな。と、安易に思えていた、この頃はまだ、自分が「ロスジェネ」と呼ばれることになるとは、知る由もありませんでしたよね。

(ヘッダーのお写真、使わせていただきましたが、当時、淀川を渡ると別世界…という心境を思い出すような1枚でした。実際に淀川だそうです。後ろ姿はわたしではありません。)

ちょっと長くなったので、次回、そんなギリギリセーフみたいに見えたロスジェネの、その後のお仕事生活の展開を書いてみたいと思います。

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