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生き方が変わった出来事

noteのアカウントを開設したはいいものの、さて、何を書こうかなと思ったまま随分時間が経ってしまいましたが、今年は年始から大きな地震があったり、いろんな話題に触れてみたいとは思いつつ、こちらのnoteも、中の人がどんな人なのかによって書いたものの捉えられ方伝わり方は変わるかもしれないな。と、自己紹介がてらに自分のことをまずは書いていってみようかなと、ようやく重たい腰をあげたようなこの頃です。
(まぁ、新年度という感覚で)

で、お題の「生き方が変わった出来事」です。

それまでの生い立ちとかも大きく自分を形成したものではありますが、「誰にも自分の中の価値観というか、世界の見え方を変える出来事に出会う瞬間があるのかもしれない」と思った出来事を書いてみたいと思います。

それまでの私

その”出来事”が起こったのは私がアルバイトに明け暮れていたお年頃のことでした。
それまでの私はというと、幼少の頃から何かといじめの対象になるような子供で、幼稚園時代はあまり記憶にありませんが、小学校にあがってからでしょうか、肌がジクジクとしたアトピーを患っていた私は、容姿のことでずっと「汚い」とか「バイ菌」とか「気色悪い」などと言われ続け、忌み嫌われ、時には暴力を振るわれるばかりだったこともあり、内気な性格がさらに内気になり、相手に言い返したりやり返したりということをできないタイプに育っていました。

長子なのに…と、親に心配をかけたくない思いや、いじめられていない弟への羨ましさなど、いじめられていることを親に言えない子供でもありました。
人から愛されたい、もっと言えば、末子に愛情が行く渇望で、母親の愛情ももっと欲しいと思っている、そんな、子供が抱きそうな、どこにでもありそうな欲求を長らくのいじめでもっと拗らせ、愛情に飢えたタイプだったと思います。

それが、中学にあがっても高校にあがっても大した環境変化はなく、いじめは常に存在していて、中学を卒業する頃にはいじめに対しての耐性がつき、女子校だったこともあってか、高校では暴力に訴えてくるタイプのいじめには遭わなかったので、やり返すというのではないですが、気にすることなく、なんなら他にいじめられている子を自分がかばうことでグループを形成していき、そのグループ内でだけは平和が保たれるという社会を構築したりするようになっていました。

短大への進学を期にアルバイトが加速、バイト先の人たちとは四六時中一緒にいるわけでもありませんし、変な粘着がない分、いじめとは距離をとった日常を楽しく過ごせるようになっていきました。

突然それは訪れた

よく聞く、「人生の転機」というほどのところまでは感じていませんでしたが、振り返ればあの出来事が私の人生の「生き方を変えた」といえば、そうだったと感じる。そんな出来事。

阪神淡路大震災。

です。

そう。冒頭に年始の地震のことにも触れましたが、自宅を失うほどの地震に遭遇する。という出来事は、私の人生において、なかなかに影響を及ぼした出来事となっていきました。
関西地域のみならず、あの震災で価値観に少なからずの影響を受けた人は多かったのではないかと思います。

発災時、私は友人たちと一緒に新年会かねがね成人した人たちのお祝いをした後、カラオケからのオールナイトで夜明けの〆ラーメンを探しに、早朝の街を神戸方面に向けて車を走らせていました。
信号待ちで車を止めた矢先、目の前の空がピカっと光ったかと思うや、低く地の底から聞こえてくるような地鳴りと激しい突上げを感じ、車が跳ねるかのようにユサユサと揺さぶられました。
同乗していた友人は私がふざけてハンドルを操作していると思ったようでしたが、あまりに長い時間(に感じられるほどの時間)揺れ続けるので、これはただ事ではないと察知したようでした。

一度揺れがおさまったころ、ふと目をあげると、さっきまで赤い色を灯していた信号はどの色も点灯がなく、右側に大きく傾いていました。
さらに横に目をやると、道路脇の建物などもすべて、灯りがなく真っ暗で、塀が崩れて落ちていたり、建物から寝巻きのままの人々がワラワラと出てきたりしていました。
山の方にある背の高いマンションの上の方から煙が立ち、火事も出ているようで、私はカーオーディオのカセットテープを止め、ラジオに切り替えました。

ラジオは大阪の放送局だったのか、詳しくはわからないものの神戸方面が震源の大きな地震が発生したと繰り返していました。
そこに、近くに住んでいたらしきご夫婦が声をかけて来ました。
聞くと、少し離れたところに住んでいる両親が心配だから乗せてくれとのこと。
5人乗りの車に友人と4人で乗っていたので、とりあえず旦那さんだけ乗せて向かいました。

割と近い距離にあったお宅に到着。建物は少し傾斜していたものの倒壊はしておらず、歪んで開いてしまっていた玄関から、旦那さんがご両親に呼びかけながら入って行きました。
私は止めた車の角度を変え、玄関を照らすようにヘッドライトを向け、様子を伺っていると、お二人を連れて「無事でした」と出てこられました。

しばらくすると奥さんも歩いて到着。お礼と、「靴がないか?」と聞かれましたが、あいにく自分の履いているものしかなく、素足で歩いて来た奥さんが気の毒で、せめて防寒になれば、と、履いていた靴下を脱いで、あげました。
早朝の〆ラーメンを食べたらその足でスキーに出かけようと思っていた私は、スポーツ用の分厚いものを履いていたので、ガラスまでは避けられないまでも、砂利避けにはなるかなと思って。

しかし、そんな状態でラーメンどころではありません。
自分たちの自宅もどうなっているか…と、一路、自分たちの家のことを思い帰路に着きましたが、普段は30分もかからないような距離に3時間かかって戻ることになりました。

途中、高速道路は砕け、阪急電車の線路がまるで溶けたかのように高架から落ち、道路は裂け、崩れた家屋で道は塞がれ、戻っては違う道を探し、亀裂の入った橋を渡り友人たちの家の近くで1人ずつ下ろしてまわって、ようやく我が家へ戻れた時には家の近くの電柱が軒並み倒れていて、自宅のそばまで車では近寄れない状態でした。

家の裏側から近づくとかろうじてその姿を保っていましたが、正面にまわると、そこに玄関の扉はありませんでした。
地震の揺れで家屋が歪み、吹き飛んだようでした。
すぐ横にあった窓も全面割れてサッシが歪み、隣のアパートの2階部分はすっかり崩れ落ちて我が家の1階になだれ込んでいる様子。我が家の屋内にある2階への階段は宙に浮いた状態で、その奥にある1階の壁はすべて崩れ落ちて中を見渡せる状態でした。

近くにいた母の存在を確認し、お互いに生きていたことに安堵したあと、祖父母が生き埋めになっていたことを知りました。
さいわい、父と近くの人たちで協力して、次々に埋まったお宅のお年寄りたちを掘り起こしたそうでしたが、うちの祖父だけは埋まっている際に梁の下敷きになってしまったようで、近くの病院に連れて行ったということで、私もそこへ向かうことにしました。

命について

結果的には、祖父は助かりませんでした。
輸血が必要な状態でしたが、親族の誰も血液型が合わず、近所の方にお願いして採血してもらったものの、出血の方を止められず手術もできない状況下で、かなり苦しませた状態で亡くなってしまいました。

私の膝の上で、私の髪を掴みながら微かな声で絞り出すように「助けてくれ」と言っていた言葉が、その後もずっと忘れられませんでした。

柔道場の床に折り重なるように並べられたご遺体の数々は、運び込まれる人が絶えませんでしたし、祖父の横には、直近に知り合ったばかりの幼い男の子が寝かされていました。
もちろん、息はとうにしていませんでした。
まるで眠っているみたいな、ぷにぷにのほっぺをツンツンすれば目を覚ますんじゃないかというくらい、綺麗な状態で寝ていたのが不思議な光景でした。

「冬で良かったかもね」(遺体が腐りにくくて)という声もチラホラ聞こえていましたが、そうは言っても放置し続けるわけにもいきません。
近郊の火葬場はどこも稼働できない状態で、さらに神戸に近いほどどこの火葬場も予約でいっぱい。
支援のために県内に入ってくる車両なども多く、遺体を運べる車を確保して県外へ出るだけでもかなりの日数を要しました。

もうその辺りの記憶も薄らいできましたが、詳細はまた機会があれば、どなたかの今後の備え、参考になるように書けたらと思います。けれど、なんせ、たくさんの知り合いや身内の死を目の当たりにして、長らく自分の生きていることに価値があるのだろうか?と思い続けていた自分が生き残ったという事実に、「命の意味」を考えさせられる事となったのでした。

死にたがっていた自分が生き残り、殺しても死なないと言われていた人が亡くなり、未知数の未来しかない子供の命さえ奪われた。
そのことの意味はなんなのか?
自分はいったい、この先どう生きるべきなのか?

大人になった未来なんて、思い描いたこともなく、ただ目の前の苦しみから逃れられたらと思っていた自分にとっての「今」に、意味を見つけたくなった出来事でした。

追記として

ただ、そういった強烈な出来事であっても、根深い自分の「生」に対しての問いは、簡単に解けるものではないものでした。

私は生き残った。今も生きている。
私自身の生きる意味とは?

少なくとも、自ら手を下さずとも、あの状況下でも、命が墜えるものではなかったということ。終わりが無情にやってくる人もいるのであれば、ならば私は?
私の視線は、確実に違うところに注がれ始めたのだと感じています。

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