母子草の賦(連載第7回)

幼い姫がお家再興を目指す和風ファンタジーです。ヤングアダルト向けっぽい感じでしょうか。連載10回くらいで完結…の予定です。〈全文無料公開〉

   第五章  虚偽の城
      1
「姫、腹でも痛いのか」
 次の目的地への道中、心配そうに尋ねる勘吾に、楓は相も変わらずの仏頂面でかぶりを振った。
「ずっと黙ったままゆえ、具合でも悪いのかと思うて」
「どこも悪うない」
 楓が言い捨てぷいとそっぽを向く。勘吾はため息をつきながら、ぽりぽりと鼻の頭をかいた。ふたりのこのようなやり取りは、すっかり見慣れた風景と化しているため、誰も気にも留めぬ。
 放っておけない気がして、楓にはなぜかついおせっかいを焼いてしまう勘吾であった。そしていつも嫌われてしまうのだ。
「……美津様がおっしゃった。『優しさと心の弱さは違う。そなたは優しく、そして強い子じゃ』と……」
 思いがけないつぶやきに勘吾は少々驚いて、楓の表情をそっとうかがった。何やら考え込んでいる様子である。
 今何か相槌をうてば、きっと怒り出すに相違ない。そう判断して、勘吾は黙して聞くことにした。
「母上の最期のお言葉は、『強い子になりなされ』だった。それを私は一生懸命守ってきたのに……」
「だから美津どのも申されたのであろう。強い子だと。姫は、母上のご遺言をきちんと守っておられる」
 黙っていようと決めていたにもかかわらず、つい口をきいてしまった。これはしまったと、勘吾は心の中で舌打ちをする。
「でも、優しい子だと。優しいことは悪いことじゃ」
 楓が機嫌を損ねてはいないようなので、勘吾はほっと胸をなでおろした。楓が己の胸の内を吐露するのはめったにないことである。
 勘吾は、楓が何を考えているのかを知りたくてたまらなかったのだ。なぜそのように気になるのか、己でも理由はわからぬ。
 俺はやはりおかしいのだろうかと思いつつ、勘吾はそっと話の続きをうながした。
「どうして」
「弱いから」
「あっ」と思わず声をあげ、勘吾は立ち止まった。けげんそうな顔をして楓も足を止め、勘吾を見上げる。
『そうか、そうであったのか……』
 惣右衛門が言っていた。母親が亡くなるまでは、かわいらしいむしろ気の弱い子どもだったと。
 傅役の惣右衛門には、楓の突然の変貌が腑に落ちぬものであるようだった。勘吾も、母親を失ったことがよほどこたえたのだろうと思いながらも、何となくひっかかるものを感じていたのである。
 しかしその疑問は、今氷解した。優しさを弱さと勘違いした楓は、強くなろうとして、一生懸命生来の優しさを押し隠してきたのだろう。
 亡くなった母親に対して己ができることは、最期の言葉を守ることしかなかったのだ。遺言を必死に守ろうとした楓のいじらしさに、勘吾は胸がいっぱいになった。
 鼻の奥がつんとしたと思ったら、視界がぼやけた。と同時に、『母』という言葉に、勘吾の心の古傷がずきりとうずく。
 その思いがけない強い痛みに、勘吾はほろ苦い笑みを浮かべた。だが、すぐに表情を引き締める。
『これは姫の思い違いを正しておかねばなるまいぞ』
 勘吾はしゃがみ込み、楓の目をしっかりと見つめて言った。
「優しさと弱さは違うゆえ、優しいことは悪いことではない。美津どのはそれが一番言いたかったのだ」
 けげんそうな表情を浮かべ、小首をかしげていた楓がはっと息を飲んだ。勘吾の膝に手をかけ、せきこむようにして尋ねる。
「人に優しゅうしても、それは弱いことにはならぬのか」
「ならぬ」
「笑うてもよいのか」
「もちろん」
 楓はうつむき、自分の足の指を見つめた。じっと考え込んでいる。
「そういえば、勘吾は強いが優しい。よく笑うし、いつも親切にしてくれる……そうであったのか」
 楓は顔を上げ、背筋を伸ばした。その姿は凛として美しい。
 そして勘吾に、にっこりと笑いかけた。
「ありがとう、勘吾」
「い、いや、俺は何も……」
 年甲斐もなく勘吾は口ごもった。あまりにも楓の笑顔がかわいかったので。
『いきなり花のように可憐な笑みを浮かべるとは……卑怯だぞ、姫……いや違う……ああ、俺がなぜ、姫が笑ったくらいで、このようにあせらねばならぬのだ』
 狼狽している勘吾のことなど意に介さず、うれしそうに楓は駆け出した。勢いよく惣右衛門に飛びつく。
「爺、いつもありがとう。いつか私が城を建ててあげるから、長生きしておくれ」
 惣右衛門は棒立ちになってぽかんと口を開けていたが、いきなり楓を抱きかかえ、額に手を当てた。
「爺、どうしたのだ」
「それは爺が聞きとうございます……熱はないようだが……別に悪いものも食べておらぬし……しかし、姫が優しいお言葉をかけてくださるなど」
「何をぶつぶつ申しておる」
 くすくす笑いながら、楓が惣右衛門の腕からするりと逃げる。
「勘吾、十蔵、久兵衛、右京、そして真海。魔物退治に加わってくれたこと、礼を申す。これからも私に力を貸してほしい」
 頭を下げる楓に、みんな驚いて一瞬声が出なかった。勘吾だけが、
「もったいなきお言葉、勘吾、姫のために力をつくすこと、改めてお誓い申す」
と言い、あわててあとの者たちもそれにならった。
「どうしたのだ。あ、ひょっとして、何かがとり憑いたか」
 眉をひそめたまま真海は楓の肩に手を置き、目を閉じた。
「大丈夫。何も憑いておらぬ。いったい何があった」
「別に。ひとつ利口になっただけじゃ」
 首をひねっている真海にはかまわず、楓が勘吾の方を向いて微笑む。急に空が明るくなったような気がして、勘吾は槍をぶんぶんと振り回した。
     2
 絵図面に赤丸で記されていた場所にあったのは、古い城だった。石垣があちらこちらで崩れかけている。
 城自体は大きくはないが、四方を急な崖に囲まれている。守るに易く、攻めるに難い城であったろうと推察された。
 治めていた城主が打ち滅ぼされたのか、または潰走したのか。現在は住む者も無く、城は荒れ果てていた。
「城に入るのは、危険じゃと思うが」
 思案顔の久兵衛に、勘吾は不敵に笑って見せた。
「しかし、虎穴に入らずんば虎児を得ずだぞ」
 十蔵が顔をしかめた。
「違うのだ、勘吾。久兵衛が申しておるのは、姫と真海、惣右衛門どのは、ここに残った方が良いと、そういうことであろう?」
 久兵衛がこくりとうなずく。
「十蔵、私は参るぞ」
「姫……」
『姫が、己だけ安穏として、危難を逃れようとするはずがないではないか。久兵衛も十蔵も修行が足りぬぞ』
 目をきらきらさせながら胸を反らす楓と、困った顔をしている久兵衛と十蔵に、勘吾はあやうく吹き出しそうになった。
「ここにいても、襲われぬとは限らぬ。一緒におる方が、まだましやもしれぬな。惣右衛門どの、いかが」
 さらりと助け舟を出した右京に、勘吾たちは、「ほう」という顔つきになった。楓を見やった惣右衛門の唇の端から笑みがこぼれる。
「右京の申すとおりじゃ。我らも城に入るとしよう」
 城の中は、明り取りのおかげで歩くのに不自由はなかったが、空気がよどんでいてかびくさかった。
「床のあちこちが腐っておるようだ。足元に気をつけろ」
 勘吾が言い終わらぬうちに、久兵衛がばりんという派手な音を道連れにして床板を踏み抜いた。右京がすかさず舌打ちをする。
「食い過ぎるからだ」
 十蔵が床下の久兵衛に手を伸ばした。
「すまんのう」
 上がったとたんにまた、久兵衛が床を踏み抜く。今度は十蔵もとばっちりを食い、一緒に床下に転がり落ちた。
「ふたりとも、このようなところで遊ぶな」
 右京がにやりと笑った。
「よう参られた」
 いきなり聞こえてきた気味の悪い低い声に、一同は驚いて立ち止まった。楓と真海を真ん中にかばって、男たちが四方に目を配る。
「何者だ!」
 勘吾が、油断無く槍を構えながら怒鳴った。
「わしはこの城の主。珍しい客人たちに、まずは御挨拶をと思うてのう」
「姿を見せよ」
「そう急かすな。織部勘吾」
「なぜ、俺の名を知っておる」
「知っているのは名だけではない。他にもいろいろと、な。たとえばお前が、父親もわからぬ不義の子だということもちゃんと存じておるぞ」
 大きく喉仏が動いたかと思うと、ごくり、と勘吾ののどが鳴る。槍を握りしめている指の関節が白くなっていた。
「ふははははは、勘吾、どうした」
      *
「その腹の子は、誰の子だ。申せ。申さぬならば、こうしてくれるわ」
 男は屋敷の裏庭で、身重の娘を樫の杖で打ちすえた。
「父上、どうかお許しくださいませ。お願いでござります」
 地面に両膝を突き、両腕で腹をかばいながら娘が懇願する。
 気立てがよくて美しい、自慢のひとり娘だった。妻が亡くなった後は、男手ひとつで大切に育てた。
 ゆくゆくはしかるべき婿をとり、馬廻り役百石の織部家を継がせる。その候補も目星がついてきた矢先、娘が身ごもったのだ。
 父親の名を聞いても、がんとして答えぬ。答えぬまま日に日に腹は膨らみ、とうとう臨月となってしまった。
 できの良い娘の不始末。石高は少なくても誇り高き父親は、娘を折檻することで憂さを晴らすようになった。
 男は娘を殴るとき、心の中で念仏のようにこう唱えた。
『こやつが悪いのだ。いくら問いただしても、相手の名を言わぬ』
 最近では、気がくさくさすると日に何度でも殴っていた。家来や使用人は男に脅され、見て見ぬふりをせざるを得なかった。
「強情なやつめ」
 腹の子をかばうしぐさがさらに怒りをさそう。男は目をつり上げ、きりきりと歯軋りをした。
「きゃあっ!」
 腰を思いきり打ちすえられ、娘は思わず悲鳴をあげた。地面にはいつくばったところを、容赦なく何度も杖が襲う。
 娘にはもはや、悲鳴をあげる気力も残っていないようだった。うつろな表情を浮かべ、口からは時折うめき声がもれ出ている。
 相変わらず腹を必死で守っているのが哀れを誘った。
 目を血走らせ口の端に泡を溜め、男は悪鬼のような形相で、数えきれぬほど杖を振り上げては下ろすことを繰り返す。
 だが、殴られ続けているうちにひゅうっという笛のような音がして、突然娘の息が止まった。
 身重で体力が消耗していたところに、この折檻。背中を強打されたために、心の臓が止まってしまったのだ。
 だらりと力なく垂れる両の腕。もはやかばわれることのなくなった腹に、一撃が振り下ろされる。
 やがて異変に気づいた父親は、杖を放り出し慌てて娘を抱き起こした。
「おい! どうした! しっかりいたせ!」
 ほおをぴしゃぴしゃ叩いたが反応がない。身体を揺さぶっても、首ががくがくと揺れるだけである。
 男は娘の首に手を当て脈をさぐった。耳を胸につけ、心ノ臓の鼓動を必死に聞き取ろうとする。
 だが、娘は死んでいた。なきがらを横たえ、男がぼう然と座り込む。
『とうとう娘をわが手で殺してしまった……しかし、こやつが悪いのだ。強情を張り続けるゆえ』
 いかほどの時が過ぎたものか。男は赤子の泣き声で我に返った。
なんと娘が、死んでから子を産んだのである。
 赤子を抱きしめ、男は号泣した。
 だが、自分が殺しておきながら男は、娘の命と引き換えに生まれてきた孫が憎かった。すくすくと育つのが憎らしかったのだ。
 いとしいと思った次の瞬間には、胸を焦がすほむらのような憎悪に駆られ、赤子をひねり殺したくなる。
 どこの男の子かわからぬ孫。こいつのせいで、俺のかわいいたったひとりの娘は死なねばならなかったのだ。
 道理の通らぬ理屈をつけ、今度は孫への折檻が始まった。もうとうに、男は気がふれてしまっていたのであろう。
 血走った目をぎらぎらと輝かせ、樫の杖を振り回しながら歩く男から、幼い孫は逃げまどい、隠れ潜んだ。男が疲れて寝てしまうのを待って、手づかみで飯を食らい、必死に生き延びたのだ。
 そして七歳のある春の日、いつものように杖で叩きのめされたとき、孫は逃げ込んだ台所で、ふと目にした包丁を無意識のうちにつかんだ。そこから先、孫の記憶は夢の中の出来事のように定かではない。
 そして気がつくと、男があおむけに倒れていた。鈍い光を放つ包丁が、腹に深々と突き刺さっている。
 あたりは血の海だった。その赤い色は、今でもよく覚えている。
男の死に顔は、なぜか穏やかであった。
 幼い孫を打ちすえながら、実はこの日が来ることを、男はずっと待ち望んでいたのかもしれなかった。
「そして勘吾。お前はそのまま家を捨てさまよい歩いた。食うためにさまざまな悪事を犯した。かっぱらい、盗み、たかりから始まって、果ては人殺しまで……」
「やめろ。やめてくれっ!」
 からんと音がして槍が転がった。勘吾がひざをつき頭をかきむしる。
押し込めていた忌まわしい記憶のすべてが、目の前で再現されていた。あやかしだとわかっていても、どうすることもできない。
「うわああああっ!」
 勘吾は絶叫した。
      3
「惣右衛門どの」
 その優しい声音のぬしは、三年前に亡くなった妻の千代だった。
「変わっておらぬ。いや、心なしか若うなった気がする」
 千代は、銀鼠に白い小菊を散らした小袖を着ていた。惣右衛門が以前所要で京におもむいた折の、土産の品である。
 妻に土産など買い求めたのは初めてのことであり、惣右衛門は面映い思いをした。だが小袖は千代によく似合い、また、千代自身もたいそう気に入っていたのだ。
 千代がいたずらっぽく目をくるっと回し、袖を口にあててくすくすと笑う。
「若う見えるなどと、まあ、ほんにお口のお上手なこと」
 普段はつつましやかだが、時折のぞく少女のような妻のしぐさを、いつも惣右衛門は好もしく思っていた。死んだはずの妻の、以前と寸分違わぬ姿を目の当たりにして、胸がつまり目頭が熱くなる。
 すると、妻が亡くなってから悔恨の念とともに胸のうちでいつも語りかけていた言葉が、ふいに惣右衛門の口からこぼれ出た。
「そなたが死んで初めて気付いた。千代はわしの支えじゃったと。それなのにわしは御用繁多にかまけて、夫らしいことはなにもしてやれなんだ。すまぬ」
 頭を下げる惣右衛門に、千代はゆっくりとかぶりを振る。
「何を申されます。私は、死んでなどおりませぬ」
 千代はつと側により、惣右衛門の手をとった。
「むう、ぬくい手をしておる。しかし確かに三年前そなたは……」
「そのようなこと、どうでもよろしいではございませぬか。現に私は、こうして今、あなたのお側におるのですし」
 夫の手をそっと自分のほおに当て、千代が微笑んだ。
『気をつけろ。これはあやかしだ』
 頭の中で警鐘が鳴り響く。しかし、懐かしい妻の髪の香をかいだとたん、惣右衛門の心の壁が、がらがらと崩れ去った。
「千代」
 惣右衛門は、妻を抱きしめた。
      *
「おい、信六」
 三歳年下の弟は、うっすらと目を開けた。
「米をもろうてきた。粥を作ってやるからな」
 十歳の久兵衛は、うれしそうに布の袋をふってみせる。手際よく米をとぎ、鍋に入れて火にかけた。
 血色の悪いほおに、信六はわずかに笑みを浮かべた。
「兄上、ありがとう」
 弟のつぶやきに、得意げに鼻を膨らませて久兵衛はくしゃりと笑った。鼻水をぐいと着物のそででぬぐう。
 父親は一応武士だが、普段は百姓をしている。今は四人の兄たちと共に、戦に借り出されていた。
 病弱な弟の面倒をみながら、久兵衛が家を守っているのだ。母は五年前に難産で、赤子ともども亡くなってしまった。
 村ではもう四年も凶作が続いていた。そうでなくても子沢山で貧乏な長沢家の米びつは、その役目を負わなくなって久しい。
 蜘蛛が好き放題に巣を張りめぐらせていた。
 物心ついてから一度も腹いっぱい食べたことのない信六は、もともといわゆる蒲柳の質である。そこに慢性的な栄養不足も手伝って、身体がだるく熱っぽいと、この二十日ほど寝付いてしまっていた。
 少しでも滋養のあるものをと思っても、父親が置いていった銭はとうに底をついている。久兵衛は川で魚を捕まえ、蜆を拾い、草の根を掘り、木の実を取った。
 もちろん、よその畑で泥棒までやってのけた。
 今日は干してあった着物を盗み、隣村まで行って米と交換してきたのだ。三合しかないが、粥にすれば三日は食べさせてやれるだろう。
 かまどの前にしゃがんで火加減を調節しながら、卵がほしいと久兵衛は思った。
 卵入りの粥はうまい。滋養もある。
 明日夜明け前、鶏小屋に忍び込むとするか。
 鍋の中でくるくると舞う米を見つめながら、久兵衛は策を練った。
 やがて米が粥に変じた。ふつふつと上がるうまそうな匂いの湯気に、久兵衛の腹の虫が盛大に鳴る。
『おい、こら。騒ぐな腹の虫。これは信六の粥じゃ。お前らにはやれぬ』
「できたぞ」
 久兵衛は微笑み、眠っている信六の鼻をきゅっとつまんで耳元で言った。
「起きろ」
 だが信六は目を開けなかった。
「何をしておる。世話を焼かせるな。この、寝坊助」
 揺さぶると、やせこけた胸にのせていた右手がすべって寝床にぽたんと落ちた。久兵衛の顔からさっと血の気が引く。
『まさか……そんな馬鹿な……』
 頭の中が真っ白だ。ちゃんと息を吸っているのに胸が苦しい。
 口の中がからからになった。
「信六っ!」
 急いで胸に耳を当てたが、何も聞こえなかった。自分のこめかみが、どくんどくんと脈打っているだけだ。
「ほら、食えよ。白米の粥だ。うまいぞ」
 久兵衛は弟の口をこじ開け、粥をひとさじすくって入れた。ふたさじ、三さじ……。
「信六ぅーっ!」
 さじを乱暴に放り出し、椀をかたむけて一気に注ぎ込む。粥はあふれ出て、弟のほおを濡らした。
「食ってから死ねよおーっ!」
 久兵衛は、信六にとりすがって号泣した。
 戦から戻ってきた父も兄たちも、誰も何も言わなかった。しかしあれからずっと久兵衛は、弟を餓死させてしまった自分を責め続けている。
 戦働きで稼いだ金は、きれいさっぱりすべて飲み食いに使った。信六とふたり分、うまいものを腹一杯食う。
 そんなことをしても己の罪は消えぬ。だが、そうせずにはいられなかったのだ。
「兄上」
 久兵衛は、阿呆のようにぽかんと口を開けた。おとなになった信六が、にこにこ笑いながら手招きをしている。
「こっちに来て一緒に食おう」
 山のような料理が並んでいた。どれも皆うまそうだ。
 久兵衛は、信六の隣に腰をおろすとにっこり笑った。
「まずは一献」
 弟は、兄の杯に酒を満たした。
      4
「おふじ! おふじではないか!」
 十蔵は駆け寄ると、女の手を両手で握りしめた。
「十蔵どの、お久しゅうございます」
 女は深々と頭を下げた。うりざね顔で目が細い。
洗いざらした粗末な茶色の着物を身にまとっていたが、女のたたずまいには、どことなく清潔感が漂っている。。
「そなたを身請けしようと金を貯めておるのだ。今度の大口の仕事――魔物退治――が首尾よく終わったら、やっと満額になる。金を持って迎えに行くつもりじゃった」
 口から泡を飛ばしながら勢い込んでしゃべっていた十蔵は、ふと口をつぐんだ。苦界にいるはずのおふじが、自由の身になっている訳に思い当たったのだ。
 どんぐり眼がかっと見開かれる。
「ま、まさか! 誰かに身請けされたのか!」
 おふじが微笑み、ゆっくり静かにかぶりをふる。両のほおにくっきりと深いえくぼができた。
「先日身請けされた朋輩が以前流行り病にかかったとき、私が看病したことがあって。それに恩義を感じていたからと、楼主に金を払ってくれました。それゆえ、少し早めに年季が明けたのです。真っ先に、十蔵どののところへと思うて」
「そうか、それはよかった……すまぬ……お父上の借金のかたにそなたが連れて行かれたとき、俺は何もできなんだ」
 ほっとした表情を見せたのも束の間、十蔵が悔しそうに唇をかみしめる。おふじは気遣わしげに十蔵を見つめた。
「ご自分をお責めにならないでくださいまし。あのとき、十蔵どのは私と同い年。たった十二だったのですもの。峠まで送ってくださったでしょう。そして、絶対迎えに行くと約束してくださった。ふじは、とてもうれしゅうございました。十蔵どののあのお言葉を支えに、今日まで生きてくることができたのです」
「おふじ、俺と夫婦になってくれ」
 まっすぐおふじの目を見つめる十蔵に、おふじはつらそうに視線を外し、そっと顔をそむけた。
「私は、もう昔のふじではございませぬ。汚れておりまする」
 十蔵はかみつかんばかりの形相で、おふじの細い肩をがしりとつかんだ。
「何を申すか。おふじはおふじじゃ。わしにはそなたしかおらぬ。貯めた金で、どこかに小さなめし屋でも開こう」
 はらはらと、おふじの目から涙がこぼれほおをぬらす。
「十蔵どの」
「おふじ」
 十蔵は、おふじをかたく抱きしめた。
      *
 右京は女に裏切られた自分の姿を。真海は、母親に左目を抉り取られた例の悪夢を見せられていた。ふたりとも床に座り込んで頭をかかえ、がたがたと震えている……。
      5
「楓」
 呼びかけられて振り向いた楓は、驚いて叫んだ。
「姉上! なぜこのようなところに!」
 ふたつ上の姉、菊乃だった。金糸や銀糸で豪勢に花を縫い取った、豪華な緋色の内掛けを羽織っている。
 楓は思わず自分の埃まみれの着物と傷だらけの足を見た。
「なんじゃ、その哀れな格好は。魔物退治などかわいそうに。だがまあ、貧乏くじを引かされるのも無理はない。楓には、後ろ盾になってくれる母上がおらぬゆえな」
 細いあごを少し突き出すようにして、くつくつと菊乃が笑う。いつもそりが合わぬ意地悪な姉。
 城にいるとき、楓はよく菊乃にいじめられていた。もちろん、負けてめそめそ泣くような楓ではなかったが。
 菊乃の物言いと態度ににむかっ腹が立った楓は、お返しのように両腕を組んで胸を反らし、つけつけと言い放った。
「貧乏くじではありませぬ。父上の仰せにございます。しかと頼むと」
 もうたまらぬというように、菊乃は身体を折り曲げひいひいと笑った。笑い過ぎて腹でも痛いのか、両の手で押さえている。
 やがて、笑いの発作がおさまると身体を起こした。しゃんと背筋を伸ばし、いずまいを正す。
 そして芝居がかった仕草で、大仰に目じりの涙をぬぐった。
「おお、おお、相も変わらず、どこまでもおめでたいのう、楓は。かわいい子に苦労をさせたいと思う親がどこにおる。落城の折父上は、私たちには魔物退治などさせとうないと申された。邪魔者のそなたなら、魔物に食われて死んでも痛うも痒うもないわと、笑いながら仰せじゃった」
 楓は菊乃をにらみつけた。視線で人を焼き殺すことがかなうなら、たちまちのうちに菊乃は黒焦げになってしまったに相違ない。
「嘘じゃ」
「嘘ではない。それが証拠に、父上の手はずで我らはみな無事に落ちのび、山瀬の叔父上のところに身を寄せておる。着る物も食す物も何もかも、城におった頃とまったく変わらぬ、何不自由のない暮らしじゃ。哀れよのう。自分が疎まれているとも知らずに、父上のご命令じゃからと、難儀な魔物退治など」
 あやかしだと楓は思った。そのようなことをなさるはずがない。最後にぎゅうっと抱きしめてくださった父上が。
 あの時と同じ……。亡くなられた母上に取りすがって泣いている私を、何も言わずにぎゅうっと抱きしめてくださった。
 父の温もりを楓ははっきりと覚えていた。あれが父上のお気持なのだ。楓には、確固とした自信があった。
 魔物の手妻になどだまされはしない。しかし、どうすれば魔物をやっつけることができるのだろう。
 非力な自分は、武器も術も使うことができぬ。絶望に打ちひしがれ、急に楓は涙ぐみそうになった。
 ちらりと見やると、菊乃が挑発的な笑みを浮かべている。『どうだ、私にはかなうまい』と表情が物語っていた。
 とたんに、楓の心にむくむくと反抗心が湧き起こった。
『これ、何を弱気になっておるのだ。いかぬぞ、楓。このていたらくでは姉上の……いや、違うた……魔物の思う壺ではないか。私は空知の姫じゃ。かなわぬまでも、何とか一矢報いてやらねば胸がおさまらぬ』
 まずはあやかしを破ることだ。楓は必死に考えた。一生懸命考え過ぎて、額のあたりがちりちりと熱くなる。
 そうだ! 懐剣で腕を突こう。痛みできっと目が覚めるに違いない。
 急がねば、もっと強い手妻を見せられてしまうやもしれぬ。そうなれば、ひとたまりもなく正気を失うであろう。
 帯に手挟んだ懐剣を抜こうとした手に何かが触れる。それは肌身離さず持っている、母の形見の小さな手鏡であった。
「母上!」
 思わず祈るように母の名を呼んだ楓は、「あっ」と声を上げた。
 天啓がひらめいたのだ。
 楓は、鏡を菊乃に向かってかざした。
 術を返す!
「ぎゃあああっ」
 菊乃は手で目をおおい、すさまじい悲鳴をあげながらしゃがみ込んだ。鏡が反射した光に目を射られたのだった。
      *
「決して悪いようにはせぬ」
「む……ではよしなに」
 一礼して去っていく同僚を見送りながら、男は心の中でほくそえんだ。これでまた一丁上がり。
 なんと他愛もないことよ。少しばかり追従を言ってやったら、ころりと引っかかりおった。
 人の心など、舌先三寸でどうにでもなる。
 この下克上の世の中に、せっかく生を受けたのだ。どんな手を使ってでも、のし上がってやろうではないか。
 廊下の曲がり角で振り返った同僚が、人の好い笑顔を浮かべている。男は軽くうなずいてみせた。
『ふん、阿呆めが』
 くるりときびすを返し、勢いよく足を運ぶ。馬鹿にこれ以上かかずりあっている暇はないのだ。
 前方から上役がやってきた。面倒くさいが、それはおくびにも出さず、脇に寄って神妙に頭を下げる。
 突然灼熱感が、そして一瞬の後、息が詰まるほどの鋭い痛みが男の腹を貫いた。いったいどうしたのだ。
 男は大きく目を見開いた。信じられない物を見たのだ。
 己の腹から小刀がはえている。柄は、上役の右手に握られていた。
「な、なぜ……」
 上役が事も無げに、思い切りぐいっと抉(こじ)てから小刀を引き抜く。「うっ」と男がうめいた。
 あえぐ男に、上役は冷たく言い放った。
「おぬしの汚いたくらみは、とうの昔にに露見しておったのだ。裏切り者は成敗せよとの、殿のご命令じゃ」
 どすんというにぶい音がした。男が床にくずおれたのだ。
 血がまるで生き物のように、じわりと男の身体から這い出してくる。男は顔を床につけたまま、己の置かれている状況がまだ信じられぬ様子であった。
「そんな馬鹿な。皆、俺の味方についておったのに」
 上司は、一瞬、男に唾を吐きかけたい衝動に駆られたが、なんとか思い止まった。代わりにほおをゆがめ、冷たい微笑を浮かべる。
「おぬしの心にはまことがない。それを見抜かれておったことに気付かなんだのか。哀れなやつよ」
 上役は小刀を懐紙で丁寧にぬぐい鞘に収めたが、男の最期のつぶやきは、耳に入らなかった。
「この城は……俺の物だ」
      *
「うわああああっ」
 おとなの男くらいある大きな黒い猿が、床でのた打ち回っていた。毛はつやつやと光り、触れたら色がつくのではないかと思うほど濡れ濡れとしている。
 術を返された猿は、人であった頃の己の忌まわしい過去を見せつけられて苦悶しているのであった。
 我に返った楓は、無防備な猿の腹に向かって懐剣を突き出した。皮を破るぶつりという音と何とも言えぬ嫌な感触に、一瞬顔をゆがめてひるんだが己を奮い立たせ、無我夢中で深く突き刺す。
「ぐわあ」
 腹に懐剣が刺さったまま、つかみかかろうとする猿を必死にかわし、楓は横っ飛びに逃げた。だが慌てたため足が滑り、尻餅をついてしまった。
 南蛮渡来のびいどろのような黄色い目を大きく見開き、憤怒の形相の猿が楓に迫る。生臭い息が、瘴気のごとく楓の力を奪い去る。
 もうだめだ。食い殺される。
 思わず目をつむった楓の耳に、何かがぶんと風を切る音が聞こえた。そして、獣のものすごい断末魔の悲鳴がそれに続く。
 おそるおそる目を開けると、猿は勘吾の槍で壁に串刺しになっていた。すでに絶命しているらしく、首と手足がだらりと垂れている。
「姫、怪我はないか」
 抱き起こされて、楓は勘吾にしっかりとしがみつき、その厚い胸に顔を埋めた。身体ががくがくと震えてとまらない。
 勘吾が楓をぎゅうっと抱き締めてくれた。父上にしてもらったように……。安堵の涙が楓の目からあふれる。
「ありがとう、勘吾」
「礼を言うのは俺の方だ。姫が術を破ってくれなんだら、俺はあのまま狂い死にするところだった」
 かたん、と乾いた音がした。顔を上げると、猿は跡形もなく消え、白い玉が床に転がっていた。
 楓は走り寄って拾い、胸に抱いた。四つ目の玉……。残るは、あと、ひとつ。
 皆が思い思いの格好で、呆然と床に座っている。いや、それはもはや床と言える代物ではなかった。
 城は消失してしまっていた。崩れた石垣に囲まれた草ぼうぼうの荒地。それが城の正体だったのだ。

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