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2020年ブックレビュー 『聖なるズー』(濱野ちひろ著)

未知の世界だった。
考えもしなかった動物と人間との性愛の世界。
京都大学大学院で学ぶライター濱野ちひろさんのノンフィクション「聖なるズー」を読むと、「ズーフィリア・エロチカ」(動物性愛)は、ゲイやレズビアンのような性的志向の一つと捉えても全然おかしくはない。むしろ、人と人とがセックスをするとき、対等な関係を結べているのかを考えると、そっちの方が心もとない気さえしてくる。

濱野さんがプロローグで触れているように、彼女は性暴力の被害者だ。そのせいで、心に深い傷を負った。痛みに向き合おうと30代の終わりに京都大学大学院に進み、文化人類学としてのセクシュアリティーを研究し始めた。そこで、取り組んだのが動物性愛だった。性暴力やドメスティック・バイオレンスを直接的に研究せず、回り道をすることで、人にとっての愛やセックスの意味を根本から問い直そうとした。

濱野さんは、ドイツにある世界唯一の動物性愛者団体「ゼータ」のメンバーたちと一緒に彼らの自宅で過ごし、彼らとパートナーの動物たち(主に犬)を観察し続けた。そこで見えてきたのは、パートナーの犬たちのパーソナリティーをきちんと捉えて、彼らと対等な関係を結ぼうとするズー(動物性愛者)の姿だった。

ズーにもいろいろあって、ズー・ゲイもいるし、ズー・レズビアンもいる。受け身のパッシブ・パートもいるし、反対のアクティブ・パートもいる。

動物性愛は、精神医学の世界ではパラフィリア(異常性愛、性的倒錯)の一つで、性にまつわる精神疾患とされている。押さえておきたいのは、ズーが性的に動物を傷つける「獣姦」をする人たちとは全く違うということ。濱野さんが出会ったズーたちは、パートナーとなった動物との相互関係や共有してきた時間などから生まれ、発見され、味わわれた「パーソナリティー」に魅了されて愛し合い、その先に性的関係を結ぶ。

決して自分の欲望を彼らに押し付けるのではなく、彼らの誘いを受け止めて「そうなって」いくのだ。また、ズーたちはパートナーとの「対等性」を重視する。動物虐待に通じる「支配する側、される側」という関係ではない。「動物とのセックスは言葉での合意が取れないから、すべて性的な虐待」という意見もあるが、濱野さんが出会ったズーたちは、パートナーたちと意思疎通ができ、性的なケア(マスターベーション)もしていた。

私は読みながら、若いころ一緒に過ごしていたオスのポメラニアンをしきりに思い出していた。彼はよく私のナマ足にしがみついて腰を振っていた。あれは誘いだったのかしら(笑)私は飼い犬が飼い主にムラムラするなんて、考えもしなかったなぁ(…まぁ、フツーはそうよね…)

ズーの中には、自らのセクシュアリティーを選び取ってズーになった人もいる。ある男性は恋人(女性)とオスの犬との3者で、種や性別を超越した性愛の関係を結んでいた。彼らは自分たち三者の関係に、とても満足しているという。

著者はこう書いている。

ズーたちにとって、動物は動物でなければならない。彼らは人間の代替として動物を必要としているのではない。動物こそ彼らは癒やされ、ケアされている。初めから裏切りのない「愛」をくれる相手と、彼らは暮らしている

そういったズーたちの動物への愛について、著者はこう書いているのが印象的だ。

…ミヒャエル(濱野さんが出会ったズー)たちが話す愛は、愛というものの型通りのあり方をなぞっているように私は思えた。意地悪な言い方をすれば、反論を許さない愛を彼らは主張しているように思うのだ。

そして、こう書くのを私は同感しながら読んだ。

…ズーたちがロマンティックにパートナーとの愛を語れてしまうのは、相手が人間ではないからだと、私は感じてしまう。彼らの愛は、ある意味で最初から保証されている。特に犬は、人間に惜しみなく愛をくれる。彼らはいなくならない。彼らは常に人間を必要とする。


相手が初めから「裏切りのない愛」をくれる動物とだからこそ、成り立つ究極の関係ー。誰もが当たり前に、そのような性的指向を選択できる日がくるのかもしれない。








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