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【短編小説】ソーダ色のあめ玉

          

 美樹にとってそれはまさに青天の霹靂だった。
まさか自分が妊娠するなんて。

 美樹がいるのは、都市銀行の本店営業部。
大学を出て入行して十七年。美樹は商品販売では常にトップを走るやり手キャリアウーマンだった。
銀行は今だ時代遅れな男社会であり、そんな美樹をおもしろく思わない人間からの風当たりは常に強かった。しかし美樹は出世欲が強く、そんなことはものともせず仕事一途に邁進してきた。そんな美樹にとっては、出世のためには家庭をもつことさえもうっとうしく思えていた。

おかげでこの度、美樹は39歳にして本営業部女性係長という名誉ある大抜擢を受けることができたのだった。支店とは違い、本店営業部ともなれば営業部フロアだけで100人近くの部下をもつ大出世だ。

しかし、美樹はこれで満足などしていない。出世という名の昇るべき階段は、まだ目の前に続いているのだから。美樹の出世欲は増すばかりだった。

 

 そんな美樹には恋人がいた。
いや、恋人などという言葉で表すのは全くふさわしくない相手。美樹にはここ五年、割り切った大人の関係を続ける男がいた。同じ本店営業部の融資課長である本条健士だった。元野球部らしくがっしりとした体格。なかなかの切れ者で仕事が出来る上に、部下からの信頼も厚い。  

この営業部フロアで本条に少しの好意も抱かない女子行員は、おそらく一人もいないのではないだろうか。

しかし、彼には妻子がいた。不倫だった。

 

いくら理想の男でも、普通のOLは自分から望んでわざわざ不倫などしない。限りある結婚適齢期を捧げる恋愛の先には、結婚という安定があったほうがいいに決まっている。
しかし、美樹は違った。先に結婚という文字が全く見えない本条は、美樹にはかえって都合が良い相手だった。それは本条も同じ。

二人は毎週一回平日の夜数時間、決まったホテルで密会する。
そのホテル以外、レストランやバー、喫茶店ですら二人きりで会うことは一切しない。

そして、平日の夜8時以降と休日は、どんなことがあってもメールも電話も絶対にしない。それが二人の不倫のルール。しかし、そんな鉄のルールの厳しさをも忘れさせるほど、会っている時の本条は身も心も美樹を虜にした。

一頻り本能のままお互いを求め合った後、ベッドの上で本条はタバコを燻らせながらいろんな話をしてくれた。
営業成績の上げ方、行内の派閥のこと、次の人事の予想、優良な顧客の情報、だれとどんな距離感で付き合えば出世できるのか。これからの美樹の立ち回り方を教えてくれるのだ。本条の話はいつも的を得ていて、その通りにしていれば全てが自分にプラスになることを美樹は知っている。
そうやって影ながら支えてくれる本条のことを、美樹は心から信頼していた。

そんな二人の関係は事実うまくいっていたし、これからもうまくいくであろうと美樹は思っていた。この妊娠が発覚するまでは。

 

 金曜の会社帰りのことだった。美樹はドラックストアにいた。
そこはよく立ち寄る店で、どこの棚にどんなものが置いてあるのかだいたいのことはわかる。美樹は薬コーナーの端の棚からピンクの細長い小箱を手に取るとレジに向かった。妊娠検査薬だった。今までも何度か使ったことがあり、パッケージを見ただけでそれとわかる。これを買うのは何度目だろう。でも、どうせ今回も大丈夫。きっと仕事のストレスから来るただの生理不順。

そう思っていた美樹が奈落の底に突き落とされたのは、自宅マンションのトイレの中だった。

そんな馬鹿な、嘘でしょ。ずっと大丈夫だったのに。この年になって今更?

不覚にも美樹は初めての妊娠にひどく動揺した。

時計の針は午後8時。本条にはもう電話してはいけない時間。しかし今を逃すと月曜日まで二日も本条とは連絡が取れない。この時間なら大抵彼はまだ銀行にいるはず。美樹は思い切って本条の携帯を鳴らした。正気の美樹ならけしてそんなことはしないのに。

 2コールで本条が出た。

「もしもし。本条さん?」

美樹がそう言い終わるやいなや携帯は切れた。まさかもう自宅にいたの?銀行じゃなかったの?

この五年、一度も破ったことがない不倫のルール。本条が家族といたとしたら、私からの着信にさぞかし驚いたことだろう。

 

 月曜日の営業部フロア。朝特有の気ぜわしさでそこは雑然としている。美樹はその日のメールボックスから取り出した営業部向けの書類を受け取り席に着いた。その途端目の前の内線電話が鳴る。相手番号は52番。本条だ。

「はい。営業課今野美樹……」

「今夜7時いつものところで」

そう言うと返事を待たずに電話は切れた。よかった。これでやっと本条と話ができる。早く本条に会って話がしたい。そしてその懐に包まれたい。柄にも無くそんな弱気なことを思ってしまうのは、妊娠によるホルモンのバランスの乱れからだろうか。

 

 美樹はいつものホテルの部屋に入ると、ベッドに腰かけ、バックから陽性の赤線が出た妊娠の検査キットを取り出した。それは美樹のお腹の中に、美樹と本条の子供がいるという証。美樹はそれを握りしめ、本条を待った。

ドアがノックされた。ドアスコープを覗く。本条だ。ロックを外すと空いたドアの隙間からするりと滑り込むように彼が入って来た。

「美樹、いったいどういうつもりなんだ?あんな時間に電話してくるなんて!」

本条のこんな怒った顔は今まで見たことがない。

「ごめんなさい。実はちょっと、急いで話したいことがあって」

「二人で決めたルールだろ?8時以降は電話しないって。君がルールを破るなんて思ってもいなかった。まさか忘れてたわけじゃないよな」

「もちろん覚えてる。ほんと軽率でした。ごめんなさい」

こんなに怒るということは、隣に奥さんがいたということか。

「いいか?二度とするなよ!美樹、俺はお前を信頼してるんだ。いつも冷静で、言われなくても相手の立場に立ってきちんと気を回せるところがお前のいいところだろ。だから俺はお前を選んだんだ。美樹、がっかりさせないでくれ」

「はい……けしてもうしませんから。ごめんなさい」

「ところで、お前がそこまでして俺に話したかったことっていったいなんなんだ?仕事でなにかミスでもしたのか?」

「それはない。そうじゃなくて、私妊娠したみたいで……」

「え?妊娠?話したいことってそれ?美樹、そんなこと俺に相談してどうする。まさか産もうかどうしようかなんて話じゃないよね?俺達の間の子なんて、どうやったって産めるわけないことはお前もわかってるだろ。俺達、承知の上の関係だろ?」

「……」

そうだった。こんなこと本条に話したところでどうなることでもなかった。私たちには産むなんて選択肢は初めからないのだから。お互い、そんなことは納得した上での関係なのだから。なのに私はいったい本条にどんな言葉を期待していたのだろう。

「第一お前、今子供なんて産んでたら出世コースから外れるだろ。今までなんのために必死になってキャリア積んできたんだよ。五年後には女性初本店営業部営業課課長になるんだろ?このままいったらそれも夢じゃないんだぞ。なのに今そんなことでつまずいてどうする。出世コースは一度外れたら二度と戻れないのお前もわかってるだろ?美樹、しっかりしろよ」

「そうだね。わかってる。わかってるから」

「美樹、いいか、そんなことぐらいで大事な自分の人生見誤るなよ」

そんなことぐらいで…本条のこの一言が胸に突き刺さった。

もうそれ以上、美樹の口から言葉が出てくることはなかった。全て本条の言う通りだ。この道が他の誰でもない、自分が選んだ道なのだ。

「そんなことより来月の例の得意先との北海道の接待ゴルフ、俺はお前も連れて行くように頭取に進言しておいたからな。普通なら係長では声なんてかからない大事な接待だ。俺に感謝しろよ」

「……」

 まるで妊娠の話など無かったように本条は北海道での接待の話を熱心にした。

 

数日後、美樹はマンション近くの河川敷の公園のベンチにいた。

散歩する親子連れや、ゲートボールに興じる老人達。赤や黄、緑の練習中のハンググライダーの帆が青空いっぱいに広がってはしぼむ。こんな風に平日の昼間を過ごすのはいったい何年ぶりだろう。世の中にはこんなにゆっくりと時間が流れている場所もあったんだ。

美樹は昨日銀行に2週間の休暇届けを出した。元々有休消化ができておらず、人事部から休みを取るように催促されていた美樹は、体調不良を理由に長期休暇を取ることができたのだった。

そして一番に向かった先は産婦人科だった。

「おめでとうございます。ちょうど妊娠6週目に入ったところですよ」

医者は笑顔でそう言った。そして渡された白黒のエコー写真には、小指の先ほどの小さな白い丸が写っていた。

「これは卵黄嚢といって俗にエンジェルリングって言うんですよ。赤ちゃんの袋なんです。安心してください。赤ちゃんは元気に育っていますよ」

そう話す医者に、処置して欲しいと告げると、医者はあからさまにその顔を曇らせた。  

処置の予約は五日後だった。

 

美樹はそんな昨日の産婦人科でのことをぼんやりと思い出していた。

「ねえ、おばちゃん。大丈夫?」

いつの間にやって来たのだろう。美樹の隣にあどけない顔の少年が立っていた。

「え?なに?私に言ってるの?」

「うん。そうだよ。おばちゃん、なんかお顔が青いけど大丈夫?」

「……別に、大丈夫だけど」

美樹は思わず両頬に手をやった。

「それならよかった!」

少年は美樹の隣にちょこんと腰を下ろした。

「君、誰?私になにか用?まだ学校の時間なんじゃないの?」

「僕ね、昨日こっちに引っ越してきたばかりなの。手続きとかいろいろあって学校は来週からだって、ママが。僕、小学校の一年生なんだ。おばちゃんは?どうしてここにいるの?お仕事お休みなの?」

「まぁ、そうだけど……」

「そうなんだ。じゃあ僕と同じだね。ねえ、おばちゃん、さっきどうして悲しそうな顔してたの?」

「別に悲しそうな顔なんてしてないよ。それより引っ越して来たばかりで、一人でこんなとこ来ていいの?ママ心配してるんじゃないの?早く帰った方がいいと思うけど」

「大丈夫だよ。ママは朝から仕事に行っていないから」

「え?昨日引っ越して来たばかりなのに?」

「うん、そうだよ。僕のママは頑張り屋さんなんだ」

「じゃあ今日はパパとお留守番?」

「僕ね、パパはいないの。死んじゃったとかじゃなくてね、僕は最初からパパがいないの。ママと僕だけ。ママはね、だれとも結婚しないで一人きりで僕を産んだんだ。僕のママって強いんだよ。それにとっても優しいの、僕のママ」

「そ、そうなんだ。君のママの会社ってどこ?この近く?」

「ママね、駅前の不動産屋さんで働いてるの。だれかのお家を探すお手伝いをしてるんだって。でもね、僕が生れる前はずっと銀行で働いてたんだよ」

「銀行?」

「うん、銀行。おっきな銀行。ママね、銀行のお仕事が大好きで、一生懸命頑張ってたら係長っていうのにしてもらったんだって。それでみんなから凄いってほめられたんだって。でもね、僕がママのおなかの中にやって来たから、銀行辞めちゃったんだって。一人で僕を産むために」

「そうなんだ……」

「おばちゃん、僕学校行けるようになるまでね、毎日ここでサッカーしてるよ。僕、サッカー選手になりたいんだ。だからおばちゃんもここ、また来てね」

「え?なんで私が……」

「僕こっちに知ってる人まだ誰もいないし、一人で遊ぶのつまんないもの。おばちゃんが一緒にいてくれたら嬉しいな。だからまた来てね。約束ね。じゃあ、バイバイ」

少年はサッカーボールを抱え、河原の土手を駆けていった。

銀行勤めで出世した途端に妊娠か、しかも未婚で。世の中には似たような境遇の人もいるもんだ。でも、決定的な違いはあの子の母親はあの子を産んで、私は仕事を選んだということ。人それぞれ、いろんな選択があってもいいじゃない。私は私。
河原の土手が茜色に染まっていた。

 

 翌朝美樹は吐き気と共に目が覚めた。トイレに駆け込み吐いてはみたが、どうにも気分はよくならない。ひどい……。二日酔いなんてもんじゃない。これがつわりっていうやつか。そう言えば、いつか聞いたことがある。つわりは「妊娠してるよ、お腹の中に私がいるから気をつけてよ」って、赤ちゃんからお母さんへのサインだって。まだ小指の先くらいしかないのに、送ってくるサインはずいぶん強烈なんだな。

治まったかと思うとすぐに襲ってくる吐き気に、どうにか気分を変えたくて美樹はサンダルを履き外に出た。

ふらふらとあてもなく歩き土手にさしかかると、一人で懸命にボールを追うあの少年がいた。あの子、今日も一人か。あんな小さいのに知らない土地で一人って。

美樹は少し離れたベンチに腰を下ろした。

「あ!おばちゃーん」

間もなく美樹を見つけた少年が手を振り駆け寄ってきた。

「おばちゃん、また会えたね」

「……ちょっと通りかかっただけだよ」

「おばちゃん、今僕のサッカー見てたでしょ?どうだった?上手だった?」

「私、サッカーなんて全然わからないから」

「そうかぁ。僕のママもね、昔はサッカーのことなんてなんにも知らなかったんだって。だけど僕がサッカー選手になりたいって言ったから、お休みの時は公園でいつも一緒にサッカーしてくれるんだよ。あとね、サッカーの試合も見に連れてってくれるんだよ」

「そう……」

「おばちゃんも、いつか子供と行ってみたらいいよ。絶対楽しいって思うから。きっとサッカー好きになるから」

「私、サッカー全然興味ないし、第一子供なんていないから」

「どうしていないの?」

「どうしてって、別に欲しくないから」

「どうして欲しくないの?おばちゃん子供きらいなの?もしかして、僕のこともきらい?」

「きらいってわけじゃないけど。子供とあんまり話したことないし。とにかく、子供ってなんかめんどくさいって言うか苦手」

「僕のママもね、昔子供が苦手だったんだって。すぐ泣くし、言うこと聞かないし、うるさいし。だけどね、僕のこと産んでほんとに良かったってママいつも言うよ。僕といるだけでしあわせだって。僕がいれば他にはなんにもいらないんだって。だからおばちゃんも子供ができたらその子のこと、好きになるんじゃない?きっとなると思うよ!」

「あのね!あなたのママと私は違うの!子供が苦手でも別にいいじゃない!あなたに関係ないでしょ!」

思わず語気を強めた美樹の言葉に、少年の口がへの字に曲がった。

「あっ、ごめん。大きな声出して……」

「いいよ。おばちゃん子供が苦手なんだもんね。しかたないよ」

「私、子供とどんな風に接したらいいのか全然わからないんだよね。どんな風に話せばいいのかわかんなくて」

「おばちゃん、子供って言ったって、大人の言うこと大抵のことはわかるよ。だから普通に話せばいいと思うよ。簡単だよ」

「……」

「あ、そうだ、僕ね、今日おばちゃんにあげたいもの、あるんだ」

「私に?」

「昨日ママにね、おばちゃんに会ったこと話したんだ。そしたらママがね、明日これおばちゃんにあげなさいって。だから、これあげる」

そう言うと、少年はポケットからなにかを取り出した。ぎゅっと握られた小さな手が美樹の手の上ではらりと開くとなにかがぽとりと落ちた。美樹の手にはあめ玉が一つ。袋にはブルーに白い水玉模様が書いてある。

「これ、ソーダ味だよ、おばちゃん」

ソーダあめ。それは私が七歳の時に亡くなった母が、いつも買い物帰りに駄菓子屋で買ってくれたあめ玉。だから、ソーダ味は私にとっては母との思い出の味。そんなこと、この子が知ってるわけはないけれど。

「僕、知ってるよ。おばちゃんがソーダ味のあめ玉が好きだってこと。ママもね」

「え?どうして?どうして私がこれ好きだってこと知ってるの?なんで?」

美樹の問いには答えずに、あめ玉を口に含むと少年はにっこりと微笑んだ。

「やっぱり美味しいね。僕もソーダあめ大好き。もうすぐ暗くなるね。ママ、帰ってくるから、僕もう帰るね。おばちゃん、また明日会おうね。バイバイ」

「ちょっと!ちょっと待って!ちゃんと答えてよ!なんで私がこれ好きだってこと知ってるの?ママも知ってるってどういうこと?説明してよ!ねえ、ちょっと!君!待って!」

美樹の問いに答えることなく振り向きもせず、少年は駆けていった。

今のはいったいどういうことだろう。ただの偶然?適当なこと言っただけ?でも、そんなことあるだろうか。

美樹の手に残るソーダ味のあめ玉。嘘みたいだけど三十年前と袋のデザインが一緒。美樹はあめ玉を口に含んでみた。何十年ぶりだろう。大人になってもやっぱり美味しい。  

その途端、忘れていた当時の記憶が美樹の頭に走馬燈のように蘇る。夕焼け雲、母の茶色の買い物かご、母と寄り道の駄菓子屋、大好きな10円のソーダあめ、懐かしい味。

そして柔らかい母の手の感触、優しい笑顔、声。母はいつもほんのりと洗濯しゃぼんの匂いがしてたっけ。

そうだ、私は母が大好きだった。母と過ごす時間がなによりも好きだった。父親が出張がちで家にいることが少なかった我が家。母と二人のときはよく、歌を歌ったり、お絵書きをしたりした。久しぶりに思い出す母の記憶に、いつしか美樹の目が涙に濡れていた。お母さん……。

でも、あれはいったいどういうことなのだろう。私が子供のころ好きだったソーダ味のあめ玉、なぜそれをあの子が知っていたのか。なぜあの子の母親がそれを私にくれたのか。

美樹の頭の中には、一つの仮説が浮かんでは消える。そんなばかな。いくらなんでも、そんなことあるはずがない。でもだったらなぜ。

 

翌日は雨が降っていた。いくらなんでも雨なんだから、あの子は公園にはいないだろう。そう思いながらも、美樹の足は土手の公園に向いていた。行かずにはいられなかったのだ。

やはり少年はそこにいた。雨の中、一人でサッカーボールを追っていた。

「ちょっと!なにやってるの!濡れるじゃない!雨降ってるのに」

そう叫びながら美樹は少年に駆け寄り、引き寄せると少年を自分の傘に入れた。美樹はハンカチで少年の頭や肩を拭う。

「こんなに濡れたら風邪引くでしょ!雨の中サッカーなんかやっちゃダメだよ」

少年はニッコリと美樹を見上げ、びしょ濡れの顔で言った。

「だって僕、サッカー選手になりたいんだもの。だからいっぱい練習しないと」

「こないだもそんなこと言ってたけど、なんでそんなにサッカー選手になりたいわけ?」

「だって、僕のママね、僕のために大好きなお仕事辞めたんだよ。今も僕のために毎日一生懸命働いてる。ママは僕のためにいろんなことしてくれるんだ。だから僕、早くサッカー選手になって、今度は僕がママをしあわせにしてあげたいの。だから……」

頑なに、サッカー選手になりたがっていた理由はそんなことだったのか。

「あのね!君がサッカー選手になるよりも、ママが一番喜ぶことは君が健康で元気でいてくれることなんだよ!わかる?こんな無茶して君が熱でも出したらママ悲しむよ!わかるよね?」

少年は小さく頷いた。

「だからもうこんことしちゃだめ!」

「はい……ごめんなさい」

取り敢えず、二人は公園の東屋で雨が止むのを待った。

「ねぇ。昨日のあめ玉のことなんだけど」

「うん」

「君のママ、なにか言ってた?」

「ママに、おばちゃんにあめ玉あげたって言ったら、よかったって。ママね、こっちにね、小さなお家を買ったんだよ。もう少ししたら、子犬も飼ってくれるって」

「それはすごいね」

「うん。お家も嬉しいけど、子犬、僕とっても楽しみなんだぁ。ママね、7歳の時にお母さんが死んだの。それでね、それまで飼ってた犬とお別れしなくちゃならなくなったんだって。とっても大好きだったのに。だから、僕と一緒にもう一度、どうしても犬を飼いたいんだって。そして子犬にね、その時の子犬と同じ名前をつけたいんだって」

「……そうなんだ。その犬の名前って、なんて名前?」

「ラブだよ!かわいい名前でしょ」

そうだった。すっかり忘れていた。私は六歳の時、近所で生れた子犬をもらってラブと名前を付けたのだった。クリッと大きな瞳の茶色の柴犬だった。でも一年後、母が亡くなり、父と共に父の実家に引っ越すこととなった。そのときラブと別れたのだった。ラブも連れて行きたいと大泣きしたけれど、父の実家は動物が飼えないマンションだったのだ。 

近所の家族にラブを託し、私は父とその街を去ったのだ。どうして忘れていたのだろうか。あんなにも大好きだったラブ。

「おばちゃん。おばちゃんもラブにまた会えるよ。その時はいっぱいなでなでしてね。僕帰るね。また明日。バイバイ」

こんなことがあるだろうか。いや、あるわけがない。でももはや、そうとしか言いようがない。美樹の仮説はもう揺るぎないものとなっていた。翌日、美樹は少年にそれを確かめようと決めたのだった。

 

翌日、美樹は公園のベンチで少年を待った。ほどなくして少年が美樹の前に現れた。

「ねぇ、一つ聞いてもいい?」

「おばちゃん、なあに?」

「パパ、最初からいないって言ったよね?」

「うん」

「寂しいって思うことなかった?その、なんて言うか、パパ欲しいなって思うこととか」

「そりゃあ、パパがいたらたぶん嬉しいと思うよ。だけど、僕は今でもいっぱいしあわせ。ママと二人ならいつでもしあわせ。ママもいつもそう言ってるよ」

「そうなんだ……。ねえ、あのね、君の名前、よかったら教えてくれないかな」

少年はちょっと困った顔をした。

「え?名前?そんなこと急に言われてもどうしよう。おばちゃん、どうしても知りたいの?僕の名前知りたい?」

「うん。どうしても知りたい。教えて」

「そっか。わかった。ほんとはまだ教えたくなかったんだけど……しかたないよね」

「うん。お願い……」

「僕の名前はね、今野一樹。ママの名前の漢字を一つもらったんだよ」

「ありがとう。一樹くんか。とってもいい名前だね。それで、君のママの名前は?」

「ママはね……今野美樹っていうんだ。最初に言ったんだ。おばちゃんに名前を教えちゃったらもう会えないよって、神様が。だからおばちゃん、もう会えないね。寂しいけど。でも、会えて嬉しかった。いっぱい話せて楽しかったよ。おばちゃんは?」

「……うん。おばちゃん君に会えて良かった」

「僕、またいつかおばちゃんと一緒にソーダあめ食べたいなぁ。食べれるよね?そうだよね?あ、呼んでる。もう行かなくちゃ。じゃあね、おばちゃん、本当にバイバイ」

サッカーボールを抱え、茜さす土手を走って行く少年の後ろ姿に美樹は叫んだ。

「元気でね!サッカーうまくなるといいね!また絶対に会おうね!あめ玉も一緒に食べようね!今度はサッカーもやろうね!」

少年は夕陽を背に振り向くと大きく手を振った。

「うん。また絶対に会おうね!またすぐ会えるよね!約束だよ、ママ!」

「絶対に約束ね!これから、ママ頑張るから!一樹!一樹!」

精一杯手を振る美樹に背を向け、夕陽の中に消えていく少年。美樹の目から涙が止めどなく溢れた。

 

翌日は、処置の予約の日。美樹は診察室に入るなり医者にこう言った。

「先生、すみません。私やっぱり産むことに決めました」

「え?!今野さん?」

「処置の予約までしておきながら突然にすみません。でもどうしても、私この子に会いたいんです。私この子と約束したので」

美樹はそっとお腹に手をやった。

「そっ、そうですか。驚きました。でも、わかりました。そのようにしましょう」

驚いて顔を見合わせる医者と看護師が笑顔になるのにそう時間はかからなかった。

「それじゃ今野さん、出産に当たって今しなくゃいけないこととか今後の流れとか、詳しくご説明しますね」

「はい!先生、よろしくお願いします」

「今野さんは女の子と男の子と出産前にお知りになりたいですか?お知りになりたいという方にだけうちの病院はお教えしてるんですよ」と採血をしながら看護師。

「この子はね、男の子です」

「あら、どうしてそう思うんです?」

「私には、わかるんです。この子は元気な男の子で、いつか二人でソーダあめ食べて、公園でサッカーするんです。それからサッカー観戦も。それから小さな古い家を買って、子犬も飼うんです」

「まあ、ずいぶんと具体的に決まっているんですね」

「そうですね。ちょっと、具体的すぎますよね」

診察室は笑い声に包まれた。

美樹の心にもう迷いはない。美樹にはなにものにも代えがたい、大事なものが見つかったのだから。

 

2週間の休暇を経て、美樹は銀行に退職願を提出した。

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