世界の索引としての般若心経~仏性は細部に宿る
遠さと近さということを感じることがある。近いのにまるで遠くにいるように感じる人もいるし、遠く離れているのに近くにいるみたいに感じる人もいる。
さっき別れ話を聞くまでは、世界で一番近くにいたのに、今では一番遠くに感じられる「僕だってつらいんだ」と訳わからんこという背中を蹴りたい男。
そうさ。
日曜日の時間が短くて勤務時間が長いように、伸び縮みするのは時間だけではない。空間的距離も確かに伸び縮をする。
神も仏もありゃしないという遠さの極限もあれば、しかしその逆にまた、神から不意打ちを食らうときもある。昨日見ていた夕焼けがなんと今日は神々しく見えるのだろう。
その秘密はおそらく、神仏が伽藍の下ではなく細部に宿っているからだろう。
…、わざと大真面目な前フリをしておいてえ
これをくらえーーーーーーーーーーーーーーーーニヤリ( ̄▽ ̄)
般若心経の特色の一つは、それが宗派を超えた日用経典となっていることです。下記の引用にありますように浄土真宗、日蓮宗、法華宗は般若心経を唱えることはありません。
逆に言えばそれ以外の宗派は、根本経典の一つとして大事にしているということですね。
お坊さんや学者先生が研究対象として扱うのとはまた別のところで、庶民にとって親しまれている経典であるとも言えます。
私にとっては、冒頭の『タモリ倶楽部』タモリさんとみうらじゅんさんの動画は、そういう意味でまるっきりふざけた動画ではないのです。日常生活の隅々に、汎神論のように般若心経の断片を拾うというのは、ある意味でとても般若心経的な、日常性を表しているとは言えないでしょうか。
これを見たときに「ああ、尊い行ないだな」と思いました。
やっていることは街なかにでかけて、般若心経で使われている文字121個を探す(総文字数は278文字)というだけなのですが、そのバカバカしさの中に神は細部に宿るならぬ、般若心経は細部に宿るの精神を感じます。
各宗派での受容は下記のようになっています。
日本では仏教各派、特に法相宗・天台宗・真言宗・禅宗が般若心経を使用し、その宗派独特の解釈を行っている。
浄土真宗は『浄土三部経』を、日蓮宗・法華宗は『法華経(妙法蓮華経)』を根本経典とするため、般若心経を唱えることはない。これは該当宗派の教義上、所依経典以外は用いる必要がないとされ、唱えることも推奨されない。しかし教養的な観点から学ぶことは問題視されておらず、例えば、浄土真宗西本願寺門主であった大谷光瑞は般若心経の講話録を出版している。
天台宗では、「根本法華」として重視している。また最澄作とされる般若心経の注釈がある。
真言宗では、読誦・観誦の対象としている。日用経典(日課等通常行事用の経典)であり儀典でも用いる(空海の般若心経秘鍵を参照)。繰り返し読誦する場合は、一回目は、冒頭の「仏説」から読み始めるが、2回目以降の読誦では「仏説」を読まず、「摩訶」から読む慣わしとなっている。開祖空海が般若心経を重視したことで、注釈・解釈を著す僧侶・仏教学者が多く、昭和では高神覚昇(1894 - 1948)『般若心経講義』(角川文庫で再刊)、平成の現在では宮坂宥洪『真釈般若心経』、加藤精一『空海「般若心経秘鍵」』(各角川ソフィア文庫)松長有慶『空海 般若心経の秘密を読み解く』(春秋社)などの著作が版を重ねている。高神の解釈書は、戦前にNHKラジオ放送で行われ、経典解釈として非常に評価が高く多数重版し、異なる宗派の僧侶や仏教学者からも評価されている。
浄土宗も、根本経典は浄土真宗と同様に『浄土三部経』だが、祈願の時と食作法(食事の時の作法)にのみ唱える。
時宗では、神社参拝及び本山での朝の勤行後に、熊野大社の御霊を祀る神棚に向かい三唱することが必須となっている。日用に用いる場合もある。
臨済宗では、日用経典の一つ。名僧で名高い一休宗純・盤珪・白隠が解釈を行っている。般若心経とは自分の心の本来の姿を現した経典であるという仏説をみなす説が強い。
曹洞宗では、日用経典の一つ。開祖道元が正法眼蔵の中で解釈し、かつて異端の僧とされた天桂伝尊(1648 - 1736年)の「観自在菩薩とは汝自身である」という解釈が著名である。また良寛・種田山頭火など般若心経の実践に取り組んだ僧侶も多い。良寛は般若心経の大量の写経を残しており、種田は般若心経を俳句に読み込んでいる。
修験道では、修験者(山伏などの行者)が「行」を行う際に唱える。
神道でも唱えるところがある。神社(神前)で読誦の際は、冒頭の「仏説」を読まずに、「摩訶」から読む。また、前もって「般若心経は仏教の全経典の中から選りすぐられた経典であり、それを謹んで捧げます」というような内容の「心経奉讃文(しんぎょうほうさんもん)」を読み上げる場合もある。
Wikipedia「般若心経」
般若心経それ自体はお釈迦様の言葉ではありません。数々の口伝の中から仏教のエッセンスであると考えられたもの(特に「空」)について、後世の修行僧が編纂したものです。
この『タモリ倶楽部』のみうらじゅんさんの試みは、般若心経を世界解釈の「目次」ではなく、世界解釈の「索引」とする試みではないかと私は思っています。
こうしたところに「写経」の本質があると思います。
写経は金科玉条のように経典を丸暗記するものではありません。写経は短時間でやるものではありません。
私の場合は、300文字に満たない漢字を、長いときで3時間くらいかけて写経します。一文字書くと、何やらその漢字1文字からいろんな想念が湧いてきます。そしてその想念を確かめるために買い集めた般若心経の解説書を紐解いたりしてます。
ですので、時間オーバーで最後まで書けずに仕事に戻ることもありますが、私にとっては最初から最後まで写経することが般若心経の精神に触れることではありませんので、まったく問題ありません。
般若心経の写経は膨大な仏典への入り口ではあっても、目次ではないと思います。むしろ、自分のピンときたところを索引からいい意味で(あくまでいい意味で)つまみ食いしつつ、理解を深めることが大事だと思っています。
その意味で、街なかで「空」という文字を含む看板を見つけたときに「空」について、ぼんやりと考えてみるというのは、不謹慎に見えて実は極めて般若心経的な宇宙を表しているのではないでしょうか。
もし世界が書物であるならば、それは目次ではないはずです。聖書は目次的であるような気がします。万物創造からじゃないと聖書は始まらないです。
しかし、仏教は違うというのが私の宗教観です。仏教はすぐれて索引的な、体系ならぬ体系ではないでしょうか。
仏教ではキリスト教のような異端審問は一部でしか行われませんでした。それは、仏教が神の言葉の目次ではなく、世界に散りばめられた索引だからではないでしょうか。
山頂へ行くために麓の入り口は無数にある。
これが仏教なのかなと思います。
みうらじゅんさんは、それを実践されたのかなと思いました。
最後にもうひとつ、そんな汎神論的な般若心経の動画をお届けいたします。
米国カルチャーとの融合。
心を打つのはなぜでしょうか。
それは日本人がケンタッキー・フライド・チキンを食べてプレゼントをもらうこととクリスマスイブを混同すること、初詣に行くことがおみくじを引くことであると混同するある種の感性に恵まれているからである。
親は、自分の可愛くてしょうがない子どもたちが、クラッカーパンパンやりながらケンタッキー・フライド・チキンを頬張っている笑顔に神の恩寵を感じるものだ。
おみくじを引いて大吉が出れば神は近くにいたんだと思う。
いいではないか、教会で結婚式を上げたカップルが初詣に行くのも。
正しいのだみんな。神は細部にやどり、人間は生まれながらに仏性がやどっているのだから。
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