見出し画像

スキ制限の本質~noteの地殻変動についての一考察

【推薦】

 noteの逆説が顕になってきつつある。

 スキ制限が浸透する中でこれはもう不可逆のことであり、良いも悪いもなく一つの事実として受け止めざるを得ない逆説となるだろう。

 つまり、近い将来旧来のnoterのその認知的不協和は静かにうやむやに諦めとともに解消され、毎月凄まじい数で増え続ける新noterはスキ制限を、制限としてではなくデファクトスタンダードのnote文化として受け入れる。

 スキ制限について不満をいうnoterは遠からず、昔からのnoterという区分を新noterにされていくだろう。そして、1年も経てばnoteの文化はすっかり変わっているに違いない。

 スキ制限があると何が困るかというと、それは、記事を読みました!という表明ができなくなることである。

 しかし、これは必要なことなのだろうか?という気もするのだ。

 実はみこちゃんと私の周りの特別に仲の良い人たちは、昔からお互いのnoteを訪問してスキをつけるのは、稀である。タイムラインというのも私は一切昔から見ない。

 タイムラインを見なくても、ツイッターのツイートや、個人DM、さらにチャットワークなどで、これは読まないとだめだろう!という記事は仲間内で自然と話題になるので、見に行く。そのついでに近況はどうかなって感じでその前後の記事を読む感じ。ピンとくるものがあればコメントを残したり、それが突っ込んだ話であれば、コメント欄ではなくてプライベートな空間で話を続行する。

 完全に人間を信頼しあっているのでいまさら記事を確認して、相互にスキを付け合う理由、つまり、記事は毎回読んでいるよ、そして、変わらずにあなたのことが好きだよって表明する特別な理由がないからである。

 つまり、特別な関係にある人とは特別に態度表明をする理由がないのだ。スキをしばらくつけに行ってなくても、そしてしばらくスキがつかなくてもそれで別にいい。その間、人間関係の密度が希薄になったということもまったくなく、しばらくぶりにスキをつけたり付けられたりすると、「普段読んでねーだろ」とか軽口を叩きながら、実はそれはどうでもいいお約束の冗談だったりするのだ。

 人間同士が親しくなるということは、毎回目次から本を読まなくていいことだと思う。自分の気に入ったところまで本を読んでそこにしおりを挟む。自分がずっと付き合いたいと思っている人は、その本の続編を書いている。でも、自分が読むペースは自分のペースでいいわけで、最新情報を常にキャッチしている状態が、その人のことを最も認めている状態とは限らないのはちょっと考えればすぐ分かることだ。

 それでも、noterたちは最新記事にスキをしに行くことをまるで義務のように繰り返す。なぜだろう。これは、あなたのことを好きです、記事を読んでいますということで、毎回毎回目次から本を読み直していることなのではないだろうか。

 本を読むとは、ページが進むことではなくて、本の中に深く入り込んでいくことである。だから、ページをたくさん読んだ人よりも、ページが沢山読めない、自分で考えながら自分のペースで読まざるをえないという関係性をその本と契っている人の方が、その著者の本をたくさん読んでいることを自慢する人よりも、はるかにその著者を愛し、その著者が書く本を深く理解していることにならないだろうか。

 それがつまり、私と私の特別な関係にある人が、便りのないのはよい便りという状態で、安んじてnote生活を送っている理由なんだろうなと、これを書きながら思った。

 常に好きだといい続けないと結婚生活が破綻する夫婦というのは、本当に夫婦でいる必要があるのだろうかと思う。未婚の私がいうのも何だけど、夫婦というのは、書物で言えば段々と理解が深まっていくような存在であり、その理解のプロセスは一様ではなく、急に理解が深まることもあれば、長い間の停滞期間もあるだろう。言わないとわからないことは、所詮言ってもわからないのである。だからこそ言わないこと、言葉にはできないことの大切さが逆説として浮かび上がるのではないだろうか。

 スキを好きなだけ表明できなくなるというnoteの新しい確固たる、断固たる、どれだけ旧noterから苦情を申し立てられても曲がることのない信念。

 これは、言わないとわからないことは所詮言ってもわからない、という逆説を突きつけていると思う。

 いいかれればこれは、コミュニケーションとクリエイティブの関係性における逆説だと言えるだろう。

 特別な信頼関係というコミュニケーションが十全に深まっていれば、そのコミュニケーションを維持するために、今更、目の覚めるような衝撃的な記事はいらないのである。そしてそれにスキを付ける必要もない。十分に愛し合っている人間同志には愛の言葉はいらない。それでもいるのだ、と主張したがる人がいるのは分かるけど、それはその愛に自信を持てていないか、単なる趣味だろう。

 クリエイティブというのはしかし、突然やってくる創造的破壊である。だから、特別に親しい関係であっても、創造的な破壊は起きうるのだ。全部理解していたと思っていたけど、まだ理解が足りなかったんだ!という衝撃的な自分の至らなさ、自分の理解していたという気持ちや人間を理解するということを甘く見ていたという反省と驚き、そしてその後の新しい邂逅は、慣れ親しんだ関係の中にも奇跡的に起こりうる。

 ところが、スキを義務で付けていると、安定的なコミュニケーションは毎回目次を読むように、へとへとになりながらなんとか維持はできるだけであり、さらにせっかく安定してきたお互いの相互キャラを壊すような創造的破壊、新発見はその安定を再度構築し直さないといけないので、返って煩わしいのかもしれない。

 分かりやすく言えば、ある記事に衝撃を受けて、そこに立ち止まり、今日はもうスキめぐりをやめて、寝るまでの時間じっくりそれを考えようという気持ちになった場合、まだあと25個はスキが付けられる弾が残っているのに、もったいないことをした、って話になってしまうよね。

 これは、クリエイティブな記事に対してとても、非クリエイティブな態度で接することと同義である。つまり。クリエイティブの反対語は安定したコミュニケーションなんだ。この二つを無理に両立させようとするところに、noteの逆説があらわになるというのが、この論考の趣旨である。

 その本質上、クリエイティブと安定的コミュニケーションは水と油であり、両立はし得ない。それはさっきの、25個を捨てるかどうかの極点に現れるだろう。

 ではnote運営はスキを制限することで、25個を捨てさせ、1個の創造的破壊記事をきちんと、創造的に読むことを要求しているのだろうか。

 このように考えれば、一見極めて頑なな、理不尽にも見えるnote運営の態度は、その反対に、もっとも分かりやすい、納得の行く、何らかの決意表明であると思える。

 しかし、その態度自体がまた大きな逆説を含んでいるのだ。

 冒頭に戻るが、みこちゃんとみこちゃんの仲間たちはお互いに、noteという場所をベースとしながらも、タイムラインをベースとしない「口コミ情報」によって濃密なコミュニケーション空間を形成している。

 これは、noteというプラットフォームの否定でもある。これが、先程指摘した、より大きな逆説だ。

 この逆説をそのまま是とするならば、noteは最初の出会いの場所を提供する、クリエイティブ系出会い系サイトとなる。創造的破壊に興味のあるクリエイティブな人同士をマッチングさせはするが、その後二人でデートの約束をするなり、そのままホテルに行くなりと関係が特別化することは、まったく主催者の関知するところではない。これが、今後のnoteの行き着くビジネスモデルとなるだろう。

 しかし、noteの思惑はどうでもいいのだ。それを探ることは詮無きこと。

 すでにプラットフォーマーとなったnoteをどう利用するかは、ユーザーの手に委ねられている。

 利用の仕方はおそらく次の3つに集約されるだろう。

 ■noteをクリエイティブな出会いの見本市とすること(まだ特別な関係にはなっていないクリエーターの書いた衝撃を受けた記事のみにスキをすればいいので1日5個できればいいだろう)

 ■noteをスキ制限の数を上限として、コミュニケーション維持装置として機能させること

 ■上記二つの中途半端な折衷(中途半端にならざるをえないのはユーザーの能力不足ではなく、スキ制限があるからである)

 
 このように考えてみると、スキ制限というのは、note首脳陣の中でもとびきり頭のよい人間が考え出したしくみだと思える。おそらく社内でも異論があっただろうし、いまでもあるだろう。

 だから、スキ制限とは「クリエイティブとはなにか」「コミュニケーションとどう違うのか」という問題をユーザーに再考させる、noteが放った、最高度にクリエイティブな作品に見えてくるのだ。

この記事が参加している募集

noteのつづけ方

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?