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【短編】鶏卵(後編)

(前編の続き)

「ご確認よろしくお願いします」

 デスク右端の透明なプラスチックの受け箱に、一枚のクリアファイルがそっと置かれる。古木課長はうんともすんとも言わずに、目の前のノートパソコンを凝視している。

 坂本は自分の席に戻る。いつもの様子だと、課長は十分以内には受け箱に置かれたクリアファイルに目を通す。坂本は、やはりその動向が気になるのだろう。二十秒に一度は課長の方をちらちらと見ている。そういう僕は、十秒に一度は二人の方を見ているのだが。

 僕たちが昨晩、電車の中で立てた作戦はこうだ。

「課長さ、坂本の作った申請書にめちゃくちゃ赤ペン入れてくるだろ?」

「はい。いつも真っ赤になって返ってきます」

「だからさ、課長が昔使ったフォーマットをそのまま使うんだ。課長には言わずにね。でも、『坂本は無能だ』って決めつけてるから、絶対に赤ペン入れてくるよ。その後で言ってやるんだ」

「なんてですか?」

「『これ、古木課長がA社に提出された申請書と同じフォーマットなんですけど。池田さんからいただきました』ってね。そしたら課長、絶対動揺するよ。自分で自分のやり方を否定したことになるからさ」

 古木課長がついにクリアファイルを手にとった。緊張のあまり、脇から汗が腕をつたって流れ落ちる。課長は、赤ペンを手に取って何かを熱心に書き込んでいる。それが終わると、大股で坂本のところに歩み寄り、受け箱にクリアファイルを投げ入れた。

 作戦大成功——自分のやり方を自分で否定した。それは、『坂本が無能だ』と決めつけているからに他ならない。そうでなければ、赤ペンなどは入れないはずだ。

 僕は坂本に視線をやる。しかし、その様子がなんだかおかしい。

「池田さん、ちょっといいですか?」

 坂本が、椅子に座ったまま隣の僕にすっと寄ってくる。その大きな体が壁となり、課長が視界から消える。

「これ、見てください」

 坂本がクリアファイルに挟まれた申請書を取り出すと、そこには小さな付箋が貼ってある。その上には、課長の独特な細かい文字が書き込まれていた。

【早速作成してくれてありがとう。内容確認しましたが、問題ないのでこのまま部長に提出してください。表現が的確で分かりやすいです。今後もこのような文章を心がけてください。古木】

*

「作戦失敗だったな……」

 野菜不足を補おうと野菜ジュースを飲みながら、僕は坂本にそう呟いた。

 昼食はカロリーメイトと野菜ジュースのみ。作戦が失敗し、すっかり力が抜けてしまった。一方の坂本は相変わらずよく食べる。鶏そぼろと卵の二色丼と菓子パンだ。

 古木課長は『坂本は無能だ』と決めつけている、と僕たちは思っていた。でも、決めつけているのは僕たちの方だった。古木課長は『坂本は無能だ』と決めつけている、と、僕たちが決めつけていたのだ。

「池田さん、鶏が先か、卵が先か、知ってます?」

 坂本は、鶏そぼろと卵の二色丼を見つめながら訊いた。

「まず鶏がいたから卵が生まれて鶏が増えたのか、まず卵があったから鶏が生まれて鶏が増えたのか、どっちだと思います?」

「うーん……どっちだろう……卵かな?いや、鶏かも?」

「実は、この議論って何百年も前からあるんですけど、いまだに分かってないんですよ」

「へぇ〜そうなんだ……」

「だから、これって考えるだけ無駄なんですよ」

 坂本は妙に清々しい顔をしている。

「僕が無能だから課長が叱るのか、課長が決めつけて叱るから僕が無能になるのか、どっちが先かは分かりません。でも、そんなこと考えたって意味ないんすよ」

 そう言うと、坂本は鶏そぼろと卵を半分ずつスプーンに載せて口に運んだ。

 たしかに、坂本の言うとおりかもしれない。『決めつけはだめだ』と主張する僕たちも、現に古木課長のことを決めつけていたのだから。他人のことを決めつける前に、もっと他にやるべきことがあるのかもしれない。

 坂本はどんぶりを傾け、残った米粒を吸い込む。

「早くみなさんに追いつけるように頑張ります」

 そう言ってデスクに戻る坂本の背中が眩しく見えた。

(おわり)

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