【ショートショート】デイト印の記憶
「はい」
デスクの右端に置かれた透明なプラスチックの受け箱に一枚の紙が滑り込む。まただ。そう心で呟きながら右手を伸ばすと、右隣に座る新入社員の坂本が視界に現れた。どうやら海外からの電話を受け取ってしまったらしい。額に汗を噴き出しながら、周りに聞かれないように声を潜めて「……ソーリー」と連呼している。
——頑張れ、坂本。最初はみんなそういうもんだ。
右手で掴んだ紙は、これから起こる一連の退屈な作業を想起させるからだろうか、鉛のように重い。発注書だ。ぼくは、紙の上に散らばった無数の黒い線の中から、必要な情報だけを瞬間スキャンする。まずは納期。それから部品名と必要数量。そして最後に、発注元と納入場所。それ以外の情報は、最初からそこになかったかのように扱われる。
重い腰を上げたぼくは、足速に部品置き場へと向かう。所狭しと並んだ半透明の箱たちには、自分が何者であるかを示すラベルが丁寧に貼られている。でも、そんなものは要らない。側面が青っぽい、他よりも少し小さな箱の二段目の引き出しを開け、輪っか状のゴムリングを十個取り出したぼくは、次の工程を頭の中で思い描きながらそそくさとデスクへと戻った。
すると、またしても坂本がぼくの視界を独占した。アメフト部出身で体重が百キロを越える坂本は、出張者からのお土産と思しきポッキーを一本ずつリスのようにポリポリ食べているではないか。英語での電話対応という難局をなんとか乗り切り、ホッとしているのだろう。
視線を発注書に移したぼくは、日付と名前が刻まれたデイト印に朱肉をつけ、紙に押し付ける。お客さんの名前の横には形式的な「様」を書きなぐり、マルチプリンターという怪物に紙を食べさせることで、お客さんの希望する納期で手配できる旨を知らせる。そして、梱包、発送という作業が続いた。
「池田さん、ほんと手際いいっすね!」
さっきのか弱い「……ソーリー」はどこにいったのだろう。見た目通りの低く、太く、何よりデカい声が発せられる。
「ああ、ありがとう」
否定はしない。坂本の言う通りだから。
「坂本は、仕事どう?」
「いや〜、まだ分かんないことだらけで。覚えることほんっと多いし、いつになったら慣れるんすかね。ちょっと不安っす」
「坂本だったらすぐできるようになるよ」
ぼくが新入社員のときに先輩から言われたセリフを、名前だけ入れ替えて投げてみる。
——池田だったらすぐできるようになるよ
当時のぼくは、それをお世辞だと思った。覚えなければいけない部品の種類、仕事の進め方、社会人としてのマナー、そして、お客さんとの信頼関係の築き方……。浮かれた学生生活を過ごしてきたぼくにとっては、そのどれもがエベレストを登頂するかのような難題に思われた。
しかし、先輩の言葉は決してお世辞ではなかった。入社してから五年。今では、解けた靴紐を結ぶような、髭を剃るような、取り込んだ洗濯物をたたむような、そのような感覚で仕事をこなせるようになった。入社してから何回同じ作業を繰り返したんだろう。頭というよりは、目が、手が、足が、その動作を記憶してしまった。
「そうなんすかね〜。まぁ今は目の前のこと一生懸命やるしかないんで、頑張ります!」
ぼくの感情は吐露しない。毎日同じことを繰り返す辛さを語ったところで、将来の希望に溢れた坂本には通じないだろう。その姿がなんだか眩しくて、ぼくは視線をずらす。壁に掛かった四角い時計が目に飛び込んでくる。
——9時51分23秒。
瞬間、時計と自分を重ね合わせてしまう。長針、短針、秒針。三本の針は、寿命が尽きるまで同じ作業を繰り返す。同じ盤の上を、同じスピードで、ぐるぐるぐるぐる。強いて違いを挙げるなら、ぼくの作業スピードは、多分毎日少しずつ上がっているくらい。それくらい。
「あっ」
坂本が声を漏らす。
「このデイト印、日付間違えてません?」
坂本が指を差したぼくの手元には、さっきマルチプリンターに食べさせた発注書がある。
「ほんとだ」
そこには、「池田」という名前とともに、「02.08.03」というデイト印が押されている。しかし、今日は令和2年8月4日。しまった、日付のダイヤルを回し忘れていた。ぼくは間違えて押された日付に二重線を引き、ダイヤルを調整しようとデイト印をひっくり返す。そこに並んだ6つの数字は、実際よりもぼくに向かって浮き出ているように見えた。
この五年間、デイト印に刻まれた6つの数字は、一日たりとも同じ並びを示すことがなかった。単純な数字の組み合わせなのに……。紙に刻印された朱肉の濃さも、かすれ具合も、位置も、同じことなんて一度もなかった。そして、これからもずっと。
もう一度、時計を視る。
——9時51分57秒。
さっきから34秒が経過した。あの長針、短針、秒針は、今の位置を、今までに何回通過したんだろう。
でも、それは、繰り返しじゃなかった。ぐるぐるぐるぐる、同じところを回っているわけではなかった。
前に進んでたんだ、前に。
指先でダイヤルをぐるぐると回す。「3」を「4」に。用意を整えたデイト印に朱肉をたっぷりと装わせ、紙の上に勢いよく叩きつけた。
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