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No.060 浪人一年生。春から夏へ・迷えるしんや

No.060 浪人一年生。春から夏へ・迷えるしんや

1973年(昭和48年)当時、福島県立磐城高校を卒業し大学受験を終えたものの中では、「おお〜、お前もか」の言葉は珍しくなかった。受験失敗を意味していた。僕しんやも「お前たち」の一人となっていた。大学進学の道を探る「お前たち」には、大きく分けると二つの選択肢があった。地元に残り、卒講あるいはプールサイドと呼ばれた予備校もどきに通う。もう一つは、地元を離れ、東京あるいは仙台あたりの予備校に通うかであった。

東京板橋区に実家が経営する酒販店があり、四階建ての建物の一階が店舗、4階に兄と姉が住んでいた。この時は兄利が酒販店経営を任されており、姉早苗は大学生だった。4階の一室が浪人生しんやの部屋となり、代々木ゼミナール本校に籍をおいた。結果的に、浪人時代をもう一年送ることとなる。

代々木ゼミナール、通称代ゼミの登校初日の印象は鮮明だ。山手線代々木駅で下車、学生服に学帽の男子、そして、ミニスカートにショルダーバッグの女子、対照的な様子の若者を含む人の群れが代ゼミの校舎の中に吸い込まれていく。

大教室の後方左側になんとか席を確保する。若い講師の先生が英文を読み始めても、次々と生徒が入ってくる。大教室が人で溢れんばかりだ。次年度受験のライバルたる浪人生ってこんなにいるんだ。これに来年卒業予定の高校3年生が加わると思うと、半ば呆れ、半ば馬鹿馬鹿しくなってきた。多数派の一人として生きていくのを良しとするのか?できるのか、自分は?

登校二日目も、三日目も、人の群れは同じように意識なく、代々木駅前のビルの入り口に食べられていくようだった。教壇では、講師が熱い口調で講義を進める。クラスのあちこちから、笑い声が聞こえる。高校時の教師たちの白けた授業とは別の価値観もまた、心に響くものではなかった。

登校五日目、若者の群れは代々木駅右方向に向かう。この日、僕は駅の左側の道に、当然のように足を運んでいた。しばらく歩くと、代々木駅前の混雑が嘘のように視界が開けた。前方の芝生に向け歩を速める。バッグを放り投げ、芝生に横たわり四肢を思い切り伸ばすと、自然と息が詰まった。大教室の中での息の詰まりと違った。気持ちが良かった。

大都会の中の豆粒のような点、明治神宮の中に見つけた憩いの場所だった。バッグの中から、数日前に偶然手にした一冊の薄い雑誌を取り出す。「ぴあ」訳の分からない言葉が表紙に書かれていた。中にはギッシリと都内の映画館などの情報が書かれていた。信じられない量の情報だった。映画館の上映時間などは、新聞の中に数館のみしか掲載されているだけの時代だ。

飽きずに、無味乾燥な文字の洪水の中に漂う。「京橋」のところに目を奪われる。「自由を我らに」ルネ・クレール監督1931年製作のフランス映画の名作。高校生の時から愛読書となったキネマ旬報の第一位に輝いた題名のみ知る作品だった。観ようにも観られない映画の一本が上映中、映画館の名前「フィルムセンター」、入場料「80円」。未知の映画館、地下鉄料金よりも安い入場料金。池袋文芸坐などの低料金上映館、いわゆる名画座の料金が200円だ。信じられなかった。

上映は午後3時から。11時を指している時計が恨めしかった。

「フィルムセンター」との出会いであった。

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