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「ダンス・ダンス・ダンス」村上春樹の作品と溶け込む世界を生きる

何かがやってくるのを待てばいいのだ。いつも手詰まりになったときには、慌てて動く必要はない。じっと待っていれば、何かが起こる。何かがやってくる。じっと目をこらして、薄明かりの中で何かが動き始めるのを待っていればいいのだ。

私の周りで人は死んでいない。ハワイにも行かない。車はスバルじゃない。だけど「僕」の暮らし方と動き方は似ている。そっくりだ。

「僕」は34歳で私は50代前半。「僕」は日本暮らし、私はイタリア。「僕」はよく洋楽を聴く。私は歌詞のないBGM。

世代や好みや状況が異なるから細やかなパーツは違う。けれど主人公の彼と私の軸がとても似ている。

僕は経験からそれを学んだ。それはいつか必ず動くのだ。もしそれが必要なものであるなら、それは必ず動く。

仕事を辞めて離婚をしてイタリアに来たときもそうだった。『住所不定無職にだけはならないで』と言った母の願いを逆に叶えんばかりの現実を生きる娘。人間社会の尺度で測れば、不確定要素が多すぎて、さっぱり行き先がわからなかった。

渡伊20年以上の月日が流れ、また行き先のわからない旅に出る。住む場所を動くわけではないけれど。

人間脳をフルに使って用意周到の行動をするのが大得意な私が、その特技を使わずに暮らしてみろ、という魂の挑戦状を最初に受け取ったのは10代後半。リアルな現実と幻想世界の境界線が歪んで、気が狂ってしまいそうだった。懐かしい。

得意技を封じ込めて「勝つ」にはどうすればいいのか、と模索すれば「勝ち負けじゃないんだ」と行く手を阻まれる。どうすればいい?なにをすればいい?と問えば「好きなことをしろ」と具体的な答えを教えてくれない声。

さすがに慣れた。

もしそれが必要なものであるなら、それは必ず動く。よろしい、ゆっくり待とう。

なにもしないで待つ。

動け!すぐにやれ!と教わってきた人間には結構やりにくい。先のことを考えろ!万が一のことを考慮しろ!と躾けられた世代にとっても、ブロックをはずしにくい。

じっと待つ。なにもしない。

それでもお腹が空くし眠くなる。家にホコリが溜まり身体も汚れる。だから食べる、寝る、掃除する、シャワーを浴びる。肉体と物質を使っている限り手入れは必要。

だから「なにもしない」とは言え、やることはある。まともな食事をしようとすれば、まともな食材を手に入れて料理する。快適な場所で清潔に暮らしたければ、身の回りも身なりも整える。

この暮らしっぷりが主人公にそっくりなのだ。

今年に入ってイタリアの政令で50歳以上のワクチン摂取が義務化となり、従わない場合は罰金が課せられる。昨年10月から48時間有効のグリーンパスがないと仕事ができない状態になり、有料検査を自腹で受けながら針仕事を続けていた。検査料は1回15ユーロ。2000円弱。

単純に仕事をするためだけに総額8〜10万円支払ってパスを手に入れてきた。お金を払いたくなければ無料の注射をしろ、という追い込み作戦を実行していたイタリア政府。

パスは3つの方法で手に入る。注射、感染後完治、検査陰性。それぞれのパス有効期間は注射・完治が6ヶ月間、検査は48時間。パートタイム勤務だったので時間を調整しながら週2回の検査でやりくりしていた。

今年に入って制限が強化された。スーパーグリーンパス制度を導入。注射をしないと公共機関や娯楽施設が使えない。通常のパスがないと郵便局や銀行も利用できない。そういう枠組みを政府が命じた。もちろん従わない施設管理者もいる。

狂ってるのはイタリアの政策で私ではない。それでも職場の経営者に罰金を支払わせないために、自腹で検査を受けて昨日まで仕事へ通っていた。今日から50歳以上義務化の政令が施行されたので、従わない私は自宅待機。

もちろん補償金など出ない。自宅にいてもいずれ罰金の支払い通知が来るらしい。身体を献体しないならば100ユーロよこせとは。せせこましい。ちなみに未接種で仕事を続けると経営者1500ユーロ、本人も高額の罰金が課せられる。

現時点のまま状況が変わらなければ少なくとも6月15日まで職場復帰はない。仕事をしたければ打て、まともな社会生活をしたければ打て。そういうことだ。

現実的には手詰まり。

出産と付添とお見舞い以外病院に行かない私が「感染したら危ない世代を守るため」という建前のもとで、わざわざ体調を崩すことをしなくちゃいけない道理がない。市販薬も10年くらい服用していない。

6ヶ月間有効のグリーンパスを手に入れるために、注射をしない人が、わざと感染者に接触して「完治後にもらえるパス」をもらおうとする本末転倒な動きすらある。

狂ってるのは世の中なのに、ぼんやり暮らしている人々は「お上の命令は絶対」とばかりに献体する。知っているならいい。何が入っているのかきちんと調べた上で納得して注射するならば構わない。それは個人の自由だから。

医者・政府・マスコミ、なんでもかんでも鵜呑みにしてハイハイと従う人々が「え?おかしくない?」と声をあげる人間に言う。「嫌でも我慢しなさい。みんなやってるのよ。仕事のため、子供のため、お金のためよ」と。

なんじゃそりゃ。

本当に子供達の未来を考えるならば、変なことは変だとはっきり言うべきじゃないの?みんなって誰のこと?私が子供の頃に「みんな持ってるから買って」とおねだりすると「みんなって誰?名前をあげてごらん」と言っていた母。同じことばを言おう。

みんなって誰?

私の周りには打つ選択をした人もいるし、絶対に打たない人もいる。私は打たない一択。そこが決まっているから外の状況によって変わるのは私の細やかな行動。パスを取得して仕事ができるならば続けていた。

今度は年齢制限をかけて追い込みをしてきた。だから打たない私は職場からひとりだけはじき出された。これを私は悲劇に仕立てあげない。

確かに現実的になんとかする必要はある。けれども経験上肌感覚でわかる。これはピンチの顔をしたチャンス。いつかやりたかった人生の基盤を整えるための絶好の機会。

ここで焦ってしまうと必要なものが動かなくなる。

ダンス・ダンス・ダンスの主人公を気取るつもりはないけれど、重なる。村上春樹氏の小説はなぜだかいつも人生の転機に現れる。

物語の方からやってくる。ピンポイントで。だから手にとって読む。するとストーリーと現実が重なる。彼の作品が好きとかおもしろいとか、そういう次元ではない。重なっている。

たいてい物語はそんなカタチをしている。誰が読んでも、これはワタシだオレだと感じる要素を散りばめて言葉が紡がれるのだからあたりまえ。

この小説以外にも言えることだけれど、私達はみな似たような波長のものを引き寄せて生きている。これは例外なく全員に当てはまる。地球人だろうが宇宙存在だろうが親しい波動のものを呼び込んでいる。いつも。際限なく。

いやそんなことはあり得ない!と主張する人間は自分が放つ波動に無自覚なだけ。殺されたり虐められたり事故に巻き込まれた人の場合、少し話が重く感じられるかもしれないけれど、みえない部分で呼び合ってしまっている。深入りすると長くなるのでここは割愛。

読みたい、と惹かれる本にはその時に必要なことが書いてあるものだし、なかなか読めなかった本が急にするすると頭に入ってくるタイミングもやってくる。人も然り。会いたい、と思う人に会いに行くことで道が開けたりする。

絶妙な頃合いに本が現れたり、人間に出会ったりするものなのだ。街中の看板の写真だったり、すれ違う人のおしゃべりから聞こえたフレーズであったり。いろんな形でサインやメッセージはやってくる。それはもうぼろぼろと。

なんとかしなくちゃと動き回りすぎると、実は足元にぽろりと落ちている機会を拾い損ねる。けれども足元ばかりを見ていると正面からやってくるチャンスに気づかない。その微妙な加減が大切。フットワークはあくまでも軽く。リズムに乗って。休むべきときには休む。焦らない。

これがね、なかなか現代人には難しいようで。

なにも特別なことをしないと、人生の時間の無駄遣いをしているのではないかと焦ってしまいがち。誰の目にも見える成果をあげないと無価値な人間なのでは、と勝手に自己価値を下げてしまう。

普通の主婦やサラリーマンの存在価値は低くて、大企業の経営者や著名人は生きているだけで意味があって、彼らの発言には重みがある。そんな先入観を刷り込まれている。

職業や社会的身分とは別に、喜怒哀楽をともに分かち合う特定のパートナーや家族、友達がいればシアワセでいなければ不幸。そんな刷り込みもある。

確かにやりたいことが仕事になったり、現金収入がたっぷりあったり、私生活をともにする仲間がいたほうが人生は充実しやすい。それは否定しない。

だけどたったひとつの正解なんてない。

10人いれば10通りの生き方があるし、75億人いるならば75億通りのやり方がある。参考にできる人物の「在り方」は真似できてもその人にはなれない。絶対に。わたしはわたし。あなたはあなた。

そしてずーっと根っこを手繰り寄せると全てがつながっている。だから誰かを恨んだり憎んだりするということは、結局、自分の一部を恨んだり憎んだりすることになる。

目の前にいる嫌な奴もめんどくさい上司も小うるさい親も全員、別バージョンの自分。私がやりたくない役を引き受けてくれてありがとう、と心で感謝してそっと離れればいい。自分自身を信頼できれば、どんなバージョンの自分も信頼できる。相手を変えようとしなくていい。

私達が毎日、自分の体細胞をひとつひとつ検査しないように、別の身体に入って動いている別バージョンの自分の言動をいちいち細かく確認しなくても大丈夫。ぱっと見て元気に動いているなら細かい心配はしなくてもいい。

自分の身体や魂の声が聴こえるようになると、周りの人の体調の声も聴こえてくる。本当に必要な場合にだけ手をかせばいい。必要以上の干渉は単なる自己満足のお節介だ。

普段余計な干渉はしないから、そういう人が周りにはいない。たっぷりのひとり時間がある。想像と創造にエネルギーを費やせる。

現実的な現金の計算や情報収集は必要に応じてやるけれど、あとは流れに身を委ねる。なんとなく今年は日本へ行く感じがするので、ざっと調べる。うん。問題なく行けそうだ。

描きたかった絵を描き、文章を書き、物を作る。販売予定の講座資料を作成。オランダへ旅立つ友達へのプレゼントを準備。待ってもらっていた小物修理。週に1度息子達と食事。友達と味噌を仕込む。

ざっと思いつく「やること」はこんな感じ。

午前中の針仕事へ行けなくなって暇だからスケジュール埋めるという感覚でもないし、がむしゃらに頑張る訳でもない。

ダンス・ダンス・ダンスに登場する有名タレントの五反田君が主人公の「僕」に飲みながら言う。

港区と欧州車とロレックスを手に入れれば一流だと思われる。下らないことだ。何の意味もない。要するにね、僕が言いたいのは、必要というものはそういう風にして人為的に作り出されるということだ。自然に生まれるものではない。でっちあげられるんだ。誰も必要としていないものが、必要なものとしての幻想を与えられるんだよ。

そう。ぼんやりしているとでっちあげられたモノが必要だと思わされてしまう

簡単だよ。情報をどんどん作っていきゃあいいんだ。住むんなら港区です、車ならBMWです、時計はロレックスです、ってね。何度も何度も反復して情報を与えられるんだ。そうすりゃみんな頭から信じこんじまう。

そうやって日々刷り込まれているのですよ。何度も何度も見たり聞いたりしながら。無意識のうちに。無意識領域は顕在意識よりも強力。そして気づかない。洗脳状態にある人は「私は絶対に洗脳されていない」と信じているもの。だからこそ洗脳と呼ぶ。

想像力というものが不足しているんだ。そんなものただの人為的な情報だ。ただの幻想だ。

美男子で優しくて優秀。豪華マンションに住みマセラティに乗っている有名人の五反田君が求めているもの。

たとえば愛。そして平穏。健全な家庭。単純な人生

他の人の判断基準はともかく、私には今全てある。

物語の鍵を握っている人物キキが主人公に言う。

あなたもやってみれば?
僕にもできる?
だから簡単だって言ったでしょう?やってみなさいよ。まっすぐそのまま歩いて行けばいいのよ。そうすればこっち側に来られる。怖がっては駄目よ。何も怖くないんだから

夢と現実の狭間で「僕」はキキと会話を交わす。夢なのかもしれない。

でっちあげられた幻想である情報と夢での会話に差はあるのだろうか?なにをどう捉えるか、だけの違いだと思うな。私は。

もしそれが必要なものであるなら、それは必ず動く。よろしい、ゆっくり待とう。

そうだね。待つよ。タイミングが訪れるまで。待つことには慣れている。ぼんやり待っている訳ではないし。チャンスのしっぽを掴む反射神経は猫のように素早く。それは日々鍛えている。

どうやって鍛えるかって?

たっぷり遊ぶ。食事を楽しむ。たくさん笑う。疲れたら休む。ぐっすり寝る。おもしろいことに夢中になる。身体と脳を適度に動かす。好きな音楽を聞く。歌う。そんなところかな?

いい天気の午後です。素敵な時間をお過ごしください。これから私は家を片付けます。

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note創作大賞2022参加作品
和紙のコラージュ絵本アニメ。
「Rosso Blu Giallo」
「あかまる あおまる きまる」
↓☟↓☟↓☟↓
https://youtu.be/tGeGYADHtH8

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