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ブレーキ言葉の在り処【やめた訳とはじめる機会】

「そういうの売れないんだよね」

詩から遠ざかったのは、その言葉を聞いたときだった。ふうん、そうなんだ。と聞き流したつもりだった。その時は。

イタリア語のいい本ないかな?と聞かれて返答したメッセージへの反応。翻訳したら売れそうな本を探している人からの問いかけにいくつか候補をあげて「おもしろそうな詩もあるかもよ」と添えたことへの切り返しだった。

私は詩人として活動しているわけではないし特別な思い入れもない。だから、へえ、そんなもんかな。と軽く流していたつもりだった。

つぶやきブログを始めたときに、つらつらと出てくる言葉が詩のようなリズムだったので、そのままアップロード。売れる売れない、とは関係ない世界での発信なので全くブレーキにならない。そう思っていた。

私は詩が好き。音楽にのせた歌詞を読むのも好き。ぐたぐた長いだけの文章よりも短い言葉に内包されているメッセージを感じるのが心地よい。

インスタグラムには写真のアレンジと詩を楽しむアカウントがある。日本語・英語・イタリア語の3つの言葉で作って並べている。気に入った言葉を選びつつ音感・語感そして字面も考慮する。細かくてしつこいのだ私は。ゆっくりと創れるときにしか発信しない。

それにしても創作頻度が極端に乏しいのはなぜ?と自問したら自答が冒頭のセリフだった。

そういうの売れないんだよね

聞き流したつもりの言葉がブレーキになっていた。

深く刻み込んだ記憶がない。だからなかなか気づかない。自覚なしの歯止め。その影響力は想像を超えてパワフルだ。

人は多かれ少なかれ、無意識のうちに刷り込みをされている。特に都会で暮らす現代人は、やたらと魔法をかけたがるエセ魔法使いの呪文を浴びながら生きている。

そりゃあ、病むよね。

本人の意向とは裏腹な黒魔術だらけの場所で暮らしていたら病気になってあたりまえ。

競争意識・劣等感・不安・自己否定・嫉妬…などを増長させる、ずっしり重いどす黒い魔法を表面だけキレイに取り繕って放つ輩の数の多さとうっとおしさにうんざりする。

だから大きな都会には極力近寄らない。

街にあふれるサブリミナル効果を煽る広告。買ってくれ買ってくれ!と叫ぶ商品達。見て見て!私を見て!俺を見ろ!とツクリモノの羽を広げる人々。

特定の個人を誹謗中傷するつもりはいっさいない。私だって時折、都会の便利さや華やかさを楽しむこともある。街には街の楽しさがある。

だけどね、数は暴力になる。

ひとりのバカはひとりのバカ。ふたりのバカはふたりのバカ。数万人のバカは歴史を動かす。

「サイレントマイノリティ」塩野七生

正確な彼女の表現は覚えてないけど。この言葉には大きくうなずく。私達ジンルイはそうやって歴史を作ってきた。過去を振り返ると「バカみたい」なことを真剣にやっている私達が垣間見える。

この先長い年月が経ち、今を「過去の〇〇時代」と呼ぶ頃には、現在の常識は非常識になっている可能性がむちゃくちゃ高い。

さて、話を詩に戻す。

昨日撮影した花の写真をフェイスブックにアップロードするときに、添えた文章が「詩」になった。うんうんと唸って練りだした言葉ではなくて、すらすらとタイピングした文字。語感や音も整える。

とても私らしい表現が並べた写真と相まって心地よい。それだけでいいのに。いったい「ニンゲン」という生物は何を求めてさまようのだろう。

自分にかけていたブレーキの在り処がわかったら、自動的に起動するスイッチがある。「機に会う」という表現はほんとうに的確。出会う。それがカチッとハマる。とても自然に。流れるように。

ただし身体が錆びているとボタンが押せない。鍵穴が詰まって鍵が回らない。

だからこそ「癒し」「浄化」「掃除」が常々たいせつなのだ。手伝ってもらうことは可能だけれど最終的には自分で自分の声を聴けないと根本的に解決しない。

他人の勝手な都合で浴びている黒魔術を解かないと、タイミングがやってきても動けない。

「動かない方が少なくとも慣れている」

というとても人間臭い理由を掲げて、動かない訳をつらつらとあげる。それはそれは流暢に。

ワタクシも得意でした。この長ったらしい文章みたいにうだうだと、理由やら訳をいちいち言語化して「これまで」にしがみついていた。

それは過ぎ去った残像。

時々こうして昔の残り毒を吐き出す。今年最後のスーパームーンの光を浴びながら書いてます。魚座満月の浄化パワー、すごいな。

うっすらほのかに桃色の空にぽっかり満月

素敵な日曜日をお過ごしください。

Grazie 🎶