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「という」は無自覚に書かない/作家の僕がやっている文章術129

「という」「ところ」「とき」「こと」「もの」などの言葉を、無意識にクセとして書いてしまうことがあります。

<文例1>
国東半島というところを訪ねたとき、城下ガレイという美味な白身の魚に出会うことができた。

カレイという魚は、日本各地で捕れるものらしい。

しかし大分県の、国東半島というところで捕れるという城下ガレイは、魚としての成長の過程において、一番美味しいときに、網にかかるので、刺身にしたときの味わいは格別で、他の土地では口にできないものだということであった。

城下ガレイを食べるということは、大分県の観光を楽しむときの選択肢のひとつに加えても良いのではないかと思ったとき、しみじみと旅というものは、心身をリフレッシュしてくれるものなのだなぁと確信した。

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文例1から「という」「ところ」「とき」「こと」「もの」を外してみましょう。

<文例2>
国東半島を訪ねた。美味な白身の城下ガレイに出会った。

カレイは、日本各地で捕れるらしい。

しかし大分県の、国東半島で捕れる城下ガレイは、魚としての成長の過程において、一番美味しい時期に、網にかかるので、刺身にさばいた味わいは格別で、他の土地では口にできないと伺った。

城下ガレイを食べるのは、大分県の観光を楽しむ選択肢のひとつに加えても良いのではないか。美味を口に運んで、旅は心身をリフレッシュしてくれるのだなぁとしみじみと思った。

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「という」「ところ」「とき」「こと」「もの」は、婉曲表現で使われやすい書きグセです。

日常から、遠慮をする人が書きやすい傾向があります。

直接的なものの言い方を避けて、遠回りに意味を察して理解して欲しいと考える人が多く使う傾向にあると、私は感じています。

言いかえれば「丁寧に書こう」「失礼のないように書こう」「言い切ってしまって、発言の責任を自分がとらずに済むように書こう」という心理が、働くと、必要以上の婉曲表現を文章に書いてしまうようです。

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上記の「という」「ようです」も婉曲表現です。

<文例3>
必要以上の婉曲表現を文章に書いてしまう心理が働くのです。

「丁寧に書こう」「失礼のないように書こう」「言い切ってしまって、発言の責任を自分がとらずに済むように書こう」と考えてしまうのです。

適度な婉曲は、日本語の雰囲気を和らげます。

<文例4>
国東半島を訪ねた。

<文例5>
国東半島という土地を訪ねた。

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文例5の「という」を置くことによって、他の土地を言外に意識させ、何となく国東半島に引き寄せられて訪れたのだと、表現できます。

効果を狙って書く「という」「ところ」「とき」「こと」「もの」なら、書いても良いのです。

しかし書きグセとして、無自覚に書いてしまう「という」「ところ」「とき」「こと」「もの」は遠回しっぽくて、読みにくい文章になってしまいます。

書き上げた文章を読み直すときに、必要のない婉曲の言葉を書いていないかをチェックするように心がけましょう。


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