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いつものように、精神科に行く。そして俺は負ける

これは俺の大いなる敗北の物語だ。

精神科に行くことについて「敗北」と表現することによって傷つく人がいるのは理解できる。しかし俺の中だけのローカルルールによればそれは敗北に他ならない。もちろんこれは俺だけに適用される自己ルール(ハンターハンター的に言えば制約)なので、この記事を読んでいる人たちが精神科に行ったとしても全くもって敗北ではない

これは俺だけで始まり、俺だけで終わる問題なのだ。

俺が精神科に行った(いや、連れて行かれた)のは中学2年生の事だった。

このような冒頭文を読んで意外なことかもしれないが、それまで俺はお婆ちゃんの家でそれなりに幸せに暮らしていた。厳しいながらも愛情を注いでくれたお婆ちゃんと、2匹の猫と、朝だけ水商売から帰ってくる母親、そして従兄弟達。

庭の木に登り、近所を走り回り、公園で友達を作った。春には蕗の薹を食べて、夏には虫を追いかけ、秋なのに半袖で遊び回り、冬には雪合戦をした。まさに幼年時代にしたい事は全てしたと言っても過言ではない。今から少年時代をやり直せるとしたって、俺は同じことをするだろう。

その日は、どこかおかしかった。後から思えば、何か嫌な予感が起こると薄々気づいてきた。小学五年生になった俺は学校から帰ってくると野良猫上がりの白猫に顔を埋めて寝るのが日課だった。

いつものように白猫の腹に顔を埋めていると、普段はあまり昼にいない母が珍しく起きて来て「お友達」を連れてくるから挨拶しなさいと告げた。

言うまでもなくそいつは後に俺の義父となる男なのだが、それが決定的に俺の人生の転落点だったと言える。思えば、あの素晴らしき少年時代は、まるで糸の上を歩いているか如く不安定で崩れやすく、虚構に塗れた日常だったのだ。一歩でも歩みを止めれば、一歩でも踏み外せば、「下」まで真っ逆さま。つまり、その時母親が連れて来た男は単なるキッカケに過ぎなかったのだが、俺の人生が転落し始めるものとしては十分に衝撃性のあるものだった。

その男の素性と、それから俺の身に起こったことは別の機会に書くとして、中学2年生になる頃にはもはや学校に行けないまでに精神が参ってしまった。

その頃には母親も俺がおかしくなったことに気づいたようで、無気力な俺を何処から借りて来たかわからないようなバンのやたら広い車載スペースに俺を乗せると、精神科に連れて行ったのだった。

精神科では満面の笑顔の女医が待ち構えていた。母は必死に俺の様子がおかしいことを伝えているようで、女医はなんだか熱心に頷きながら話を聞いているようだった。やがてその医者は「話を聞きたいので、2人にしてくれませんか」と言った。母は納得したように診察室から出て行った。

結論から言えば、一言も喋らなかった。

女医はまるで俺には興味がないようにPCで何かを操作しているだけだった。チラッとPCを見ると、マインスイーパーをやっていた。俺は何も喋れなかった。
この診察室の空気が重い?いや違う。俺の周りの空気だけがこの部屋とは異なるかのように感じた。俺だけが世界にたった1人取り残されているように感じた。
女医は俺のことなどお構いなしにマインスイーパーを続けた。カチカチというマウスのクリック音だけがこの狭い部屋に響いた。
女医の顔は無表情だった。仮面。能面。人形。
目の前の精神の専門家は、俺に心底興味がなかった。俺は患者ですらなかった。人間ですらなかった、生き物ですらなかった。ただの無意味な肉の塊。
先ほど俺の母親に向けていた笑顔は、アラスカにでも吹っ飛んでいったのだろうか?それは良くはわからないが、おそらく俺向けへの笑顔ではなかったということであろう。女医は俺に一瞥すらしなかった

20分ほど経ってから女医は母親を診察室に呼び戻した。そして女医は

「たくさん話したが、何も問題がないことがよく分かった」

と母に告げた。俺は何も言えなかった。

そして俺には精神科への不信感と懐疑心だけが残った。
別に、俺は助けてもらいたくて精神科に行ったわけではない。そもそも自分の意思で行ったわけではなかった。元から何も期待していなかった。だが、あの体験は俺の元から少なかった自尊心を木っ端微塵にした。俺は無価値、ゴミ以下。10代前半の俺に残ったのはそれだけだった。

もちろん、彼女が特別変わっている医者だったということは疑いようもない事実だ。あんな事は本当に稀な事で、精神医学は正しく使われれば多くの人を救う学問だということも、成長するにあたって学んでいった。

しかし、それでも俺は心の奥底で精神科への増悪を抱えていた。精神科なんか行くもんかと思っていた。誰が精神科医に悩みを言うもんかと、心に誓っていた。

やがて成長し、俺も成人を迎えた。

様々な出来事が原因で精神状態が悪化し、友人に「精神科に行け」といわれても、俺には薄暗い診察室のモニターの光に照らされた無表情の女医の顔、そして無機質に部屋に響くマウスのクリック音が連想された。それを思い出すだけでゾッとした。俺は頑なに精神科に行かなかった。

それから十数年経って、俺は精神科を予約した。
もちろん精神科への偏見が消えたわけではない。
だがその時点での精神的な問題に耐えきれなかった。夜眠れなくなり、酒に浸り、薬を乱用するよりはマシかもしれないと、ようやく思い始めたのだ。

心が弱っているのだ。

だから、俺は明日も精神科へ行く。おそらくなんの問題もなく終わるだろう。

だけれども、俺は敗北するのだ。あの日、あの女医に、そしてあの診断室の中で。

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