私小説 朝 【#風景画杯】

「おはよう」

リビングのドアを開けて入ってくる妻を迎える声は決まっている。自遊人の主夫の私は、24時間を自由にできる有難い身分だ。我が家の洗面台正面の大きな鏡扉の隅には、小さな黄色いポストイットが貼ってある。そこにはこう書かれている。

「あさ、いちばんの笑顔を、あなたへ」

今から10年前、50歳の私は仕事を辞めた。もう子供には手がかからないし、卒業も間近だ。家のローンも済んでいる。仕事を辞めてみると日々の生活に大してお金がかからないことに拍子抜けした。

まず税金がかからない。収入が無いから当たり前だ。月々の支払いは、年金と健康保険のみ。年額で1万5千円程で済む健康保険は、仕事をしていた時と比べ物にならない。年金も国民年金になるので、驚くほど安くなる。

健康でいればいるほど、お金がかからない。高齢者が健康が一番よと、言うのはこういう意味もあるんだと心の中で静かに頷いた。

私は朝3時前に起きる。その時間帯の世界は私のものだ。外はまだ漆黒の闇だ。時に月が、何か用か、と言う顔をしてこちらを眺めてくる。

サイバーオヤジと呼ばれるのに快感を覚えるキャリアを持つ私は、日本、アメリカ、ヨーロッパの企業を渡り歩き、地球の全大陸に友人がいる。

3時から6時は、私にとってのプライムタイムだ。アジア以外のすべての地域が起きている。そのうえ、インターネットは光の様に速い。恐らく日本ではネット利用率がこの時間帯が一番低いだろう。何をするのにも瞬時に返ってくるレスポンスが嬉しい。

Messengerがピンと鳴った。アルゼンチンのホセからだ。

彼はアルゼンチン東岸にある有名保養地の、街中央の交差点角という好立地でレストランを営んでいる。すこぶるアクティブで、世界を旅する、私と同種の人間だ。会うたびに、彼女が違う。

私がアルゼンチンを訪れた時、彼は白壁の瀟洒なストゥデュオを1棟貸してくれた。私は毎日そこで寝起きし、彼のレストランで食事し、艶消しブラックの最新マウンテンバイクを駆って、リゾートを走り回った。

ホセは自国のコロナウイルスへの対応のマズさに、辟易とすると伝えてきた。アルゼンチンの政治は、日本人には信じられないほど酷い。14年に一度、経済破綻がやってくるし、治安は悪い、輸入品関税は100%、つまりiPhoneは倍の値段になる。「日本は違う惑星だ」、そう彼は言う。

そんな彼だが、実は母国を愛している。

彼の街から首都のブエノスアイレスへ戻る長距離バスから眺める窓の外には地平線まで続く平原があり、延々と続く緑の絨毯の上で牛が気持ち良さそうに寝そべっていた。

南米はビーフが美味しいことで知られているが、その中でもアルゼンチンが一番だ。彼が連れて行ってくれた、シェラスコという牛肉に部位を自由に選んで食べるレストランは、他の南米諸国とは一味違うものだった。表面は焼き色で中のレアの部分の赤が濃い。ブラジルの友人が、牛を食べるのならアルゼンチンへ行けと言っていたのには頷ける。

アルゼンチンとひとしきりチャットした後に、今度はヨーロッパがピンと鳴らした。ベルギーのハインツからだ。

ベルギーは自転車大国だ。国が平らだから移動には都合が良い。国技はサッカーと自転車である。関東平野ほどしかない小さな国土から、何人も世界チャンピオンを輩出している。この日行われる、東京オリンピックの自転車ロードレースについて、現地情報を聞いてきた。

大丈夫、雨は無い。しかし、今日は強烈な暑さに見舞われそうだと告げる。ベルギーは優勝候補だ。私も日本選手よりベルギー選手を応援する。なぜなら、かの地の企業で私は働いていたからだ。ハインツは私の隣の席だ。

ベルギー人はちょっと日本人に似ている。マインドがウエットで控えめ。日本人と言うと顔が綻ぶのは、皇室がベルギー王室と関係が深いからだろう。いつだったか、交流150周年の皇室記念行事にベルギーの友人と共に招かれた。2階席のひな壇のベルギー国王両陛下は煌びやかで、隣でもてなす側の皇室はご一家勢揃いで、皆々様の色を抑えたご衣裳に来賓への日本らしい気遣いが感じられた。

その日のレースは午後なので、また会う約束をしてベルギーとの回線を切った。次に繋がったのは、アメリカ西海岸だ。

シアトルの友人ビクターは、誰もが知るIT企業で持ち前の才能を発揮して、見事な業績を上げて大金を手にして、40歳を前にしてさっさと退社して私よりも10歳以上早く自由の身になっている。ガッチリとした体形に日焼けした顔が乗る。

シアトルは水と緑の街だ。深く海が入り込み、生活と水場が近い。湾を滑る水上飛行機が緑と青の境目の中へ消えていく。フィッシャーマンズワーフで魚を投げることで有名なお店の前に立てば、銀色の鱗を振り撒く姿が楽しめる。その正面にあるのが、クラッシックなスタイルのスターバックス1号店だ。板張りのデッキから見下ろす海は、光が反射して眩しい。

ビクターは元バトミントンの選手だ。アメリカに強豪選手いないが、日本がこの種目が強いことを知っている。彼は日本の男子選手のジャンピングスマッシュが素晴らしいと言う。バドミントンも今日から試合が始まる。

ひとしきり近況を交換し合って、彼は眠りについた。地球は回っている。

東京に居ながらにして世界と繋がる。いい時代になったものだ。私がアメリカ企業に職を得ていた時代は、アマゾンがやっと産声を上げた頃で、無線通信はテキストベースがやっとだった。それが今やスマホ1台で世界中をカバーする。四半世紀前から見上げれば想像は難しいが、2021年から見下ろすといつもとはさして変わらぬ朝の始まりだ。

6時を過ぎた。妻がリビングのドアを開けて入ってくる。

「おはよう」

あさ、いちばんの笑顔を、あなたへ。

妻の一日が上機嫌で始まれば、主夫としては上出来の滑り出しだ。

ベランダは東向き。遮る物の無い高層階のマンションに差し込む光は既に白く熱を帯びている。今日も暑くなりそうだ。


※これは白蔵主さん主宰の「風景画杯」への参加作品です。レギュレーションは、「事件が何も起こらないのに面白い小説」とのこと。テーマや題材は自由で、字数は3000字から3万字くらいまでの新作のみ。評価基準は二軸。「物語中に事件が起きてない」という基礎構成点と、「中身が面白い」という演技点の合計。ビュー数、スキの数、ファンの多さなどは勘案されない。締め切り:2021年8月16日


参加作品はこちら。


サポートありがとうございます! 日々クリエイターの皆様に投げ銭しています サポート頂いたり、投稿購入いただいたお金は「全部」優れた記事やクリエイターさんに使わせていただきます