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天空の標 第四十五話
第十四章 鳴動(三)
水道は次第に狭くなっていく。渡り廊下の下は、やっと小舟一つ通れるだけの幅だ。櫂をつくだけの余裕が脇にない。カエルムは渡り廊下の手前で大きく水をひと掻きすると、櫂を船上に横倒しにし、自分も身を屈めた。小舟は勢いをつけて、渡り廊下の下をすり抜けた。
するとスピカの言う通り、前方に船着場が見えてきた。その奥には丈高い木が並ぶ。そういえば城を取り囲む形で、城下との間を区切る小さ
天空の標 第四十四話
第十四章 鳴動(二)
窓の桟を軽く蹴って、カエルムは宙に身を投げた。視界の右側に例の不可思議な水面が見える。半円形の部屋で左端の窓から出たのだ。自分の目指す落下点は真南にある水面からやや東にずれたところに当たる。
脚の裏に空気抵抗を感じながら真っ逆さまに落ちる。肩口で留めた紅葉色の羽織が吹き上げられ、頬の横で布が風に叩かれて鳴った。頭上から聞こえていた騒音は羽織の音に邪魔され、どんどん小さく
天空の標 第四十三話
第十四章 鳴動(一)
ロスは窓辺に駆け寄り、大鷲の脚から書簡を手早く取った。組紐から解放された鷲は、大きな羽ばたきとともに上空へ飛翔し、翼を翻すや北へ向けて悠々と飛んで行く。シレアの方角だ。
カエルムはロスから書簡を受け取ると、無言で組紐を解いた。紙を閉じたところに押されているのは、緊急を示す印。
書を開いたカエルムの顔に緊張が走った。テハイザ王に向けられた眼差しの険しさが、事態の深刻さを
天空の標 第四十二話
第十三章 真意(三)
差し迫った問題を真剣に案じるカエルムとは対照的に、テハイザ王は心配ない、といった体で懐から小さな円盤を取り出し、立ち上がってカエルムにそれを見せた。
「我が国が先頃発明した羅針盤です。ここから遥かに離れた地で取れた金属片を用いています。我が国の神器と非常に近い性質を持っており……これが北を示す性質があるらしい」
テハイザ王が掌に載せたそれを覗き込むと、皿状になった円盤の
天空の標 第四十一話
第十三章 真意(ニ)
「貴殿の訪問の申し出を好機ととらえました。私がシレアと友好を強化したいとの旨は大臣以下、諸官にも前から述べている。その私の意向を汲んだ上で、貴殿がいらした際の初めの応対は任せる、と」
——そう言い渡して自由に泳がせた時に、彼らがどのように行動するか。
「それで殿下の暗殺ですか!?」
ロスが激昂して足を前に踏み出す。即座にカエルムがその前に腕を伸ばして制止した。
「やめろ
天空の標 第三十九話
第十二章 抜刀(三)
通路はなだらかな弧を作りながら下方へ向かって伸びていた。向かっていく先は城の最南端。白亜の石灰石でできた壁に窓はなく、他の廊下に比べるとひんやりとした空気に満ちている。絨毯や布製の装飾が皆無のせいか、靴音が四方の壁にぶつかって反響を繰り返し、立体的な響きとなって狭い空間に広がる。
「先ほどは助けて頂いてありがとうございます」
クルックスは落ち着きを取り戻したようだった。
天空の標 第三十八話
第十二章 抜刀(二)
鋼のぶつかる音が空気を震撼させ、硝子が小刻みに鳴った。その音が鼓膜を支配すると同時に、眼の前に影が射す。
剣戟を受けるはずのカエルムの体と背中合わせの形で立ち塞がった大男が、他の二人の振り下ろした剣を止めていた。
「殿下、今です! 行ってください!!」
対峙する官吏の動きを封じながら、カエルムの頭の上から大声で叫んだのは近衛師団長だった。それを合図に、カエルムは三人の
天空の標 第三十七話
第十三章 抜刀(一)
カエルムの発言に、居並ぶ全員が息を呑み、驚愕が室内を支配した。凍りついた空気の中で、ただ一人カエルムのみが、目の前の男を見つめたまま不敵な笑みを浮かべている。
驚いたのはロスも例外ではなかった。確かに国の章を衣に示す男は「王」と呼ばれ、自分の主も成人したテハイザ王と会うのは初めてと言っていたはずだ。
場が固まっていたのがどれくらいの長さだったのか。誰一人として息も付かず
天空の標 第三十六話
第十二章 秘事(三)
翌日、待たされることしばらく、昼を過ぎた頃にようやく大臣自らが客間に現れた。初対面の時と全く同じ冷徹な態度で、王が求めに応じて会談する、とだけ述べると、大臣は二人について来るよう仕草で促した。
昨夜の嵐は何処へやら、陽光が照らす床で石の中に嵌め込まれた貝が玉虫色に光る。窓から望む海は空の青を映して冴え、その上に流れる雲の白が目に眩しい。
大臣は部屋を出て以降、無言無表
天空の標 第三十五話
第十二章 秘事(ニ)
その光源は下方、ちょうど二人が立つ場所の真下から——すぐ下の部屋からだ。
ここにいるのを気取られてはならない。真下の部屋からなら露台の上はほぼ死角になるはずだ。カエルムとロスはひたと扉に背をはりつけ、極力息を止めた。
欄干の向こう側を見つめたまま身じろぎせずに変化を待つ——さして時間はかからなかった。明かりは消え、再び周囲一帯の闇が一つになる。
音が立たないようゆっ
天空の標 第三十四話
第十二章 秘事(一)
細く開けた扉の隙間から周囲に人がいないのを確かめて、カエルムは廊に出た。
「どこに行くんです?」
後についたロスは、極力声をひそめて尋ねる。短刀を懐にしまいながら、カエルムが囁き声で答える。
「露台まで行く。道筋、やや不安がある。案内を頼めるか」
「了解しました」
ロスは主人の前に進み出て、城の南側へ足を向けた。床に靴音を響かせないよう、二人は滑るように廊下を走り出す
天空の標 第三十三話
第十一章 誘惑(三)
甘くとろけるような女性の問いかけから数秒後、カエルムは吐息とともに呟いた。
「……そうですね。私も、美しい女性に魅力を感じないとは言いませんよ」
そう言いながら、引かれるまま相手の腰に当てられた手にやや力を加える。柔い躯がわずかに反応し、女性の目が恍惚を帯びて満足気に細められた。
「それでは……」
期待のこもった眼差しをカエルムはしかと受け止める。そして、小さくも良く
天空の標 第三十二話
第十一章 誘惑(二)
妖艶、というのがその人の第一の印象である。
一本だけ灯した燭台が、人物の顔を照らす。南方人らしい明るい肌色の女性だった。化粧を施した顔は類い稀な美しさであり、紅をさした唇は薄暗い部屋の中でいっそう艶かしく目に映る。肌を透かすほど薄い絹織の衣はひたと肌に添い、黄昏時の空を思わせる紫の布越しに、丸みを帯びた魅惑的な女性の体の線を露わにしていた。
蝋燭の焔を受けて艶やかに光
天空の標 第三十一話
第十一章 誘惑(一)
天球儀が置かれた部屋では、城の中でまだ見たことのなかった男が二人ずつ左右に並び、大臣の訪れを腰を折って迎えた。中年から老年に近い相貌で、どの者も眼光鋭く、好意のかけらもない冷えた視線をカエルムとロスに投げて寄越す。
それとは別に、部屋の中央にも人影があった。
蝋燭の揺らめきを映し出す神秘的な球体の横に、長身の男が感情の無い目で球面に刻印された星図を眺めていた。居並ぶ者