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天空の標 第三十五話

第十二章 秘事(ニ)

 その光源は下方、ちょうど二人が立つ場所の真下から——すぐ下の部屋からだ。
 ここにいるのを気取られてはならない。真下の部屋からなら露台の上はほぼ死角になるはずだ。カエルムとロスはひたと扉に背をはりつけ、極力息を止めた。
 欄干の向こう側を見つめたまま身じろぎせずに変化を待つ——さして時間はかからなかった。明かりは消え、再び周囲一帯の闇が一つになる。
 音が立たないようゆっくりと扉を開け、細く開いた間から、二人はそろそろと屋内へ戻った。
「あれは?」 
 扉を閉めたところでロスが尋ねた。カエルムは硝子ガラスの外の闇を睨む。
「昨日も同じことがあった。下の部屋だな」
「天球儀の真下、海に面した一番南側、眺めが最良の露台と垂直、ですか」
 一つ一つ確認するようにロスが呟く。
「白木の扉の位置は」
「ここから考えれば、廊下の一つ先の角を曲がったあたり。上階、天球儀のある部屋近くに繋がる階段の脇です」
 昼間に城内を巡る中で作り上げた頭の中の地図を辿る。カエルムもその位置関係に合点がいったようだ。瞳の紅い光が強くなる。
「この位置だ。重鎮の部屋、と考えて間違いはないだろう」
「あの王ですか」
「いや、さっきの王は……」
 カエルムの言葉の先は続かなかった。その代わりに、端正な顔に含みのある微笑が浮かぶ。
「明日、もう一度会談になれば確信できると思う。王の真意は、から直に聞くことにするさ」

 ***

 その晩、露台を後にしたカエルムとロスが城の中を抜ける間、不気味なほど何事も起こらなかった。カエルムの部屋で策に失敗した女性は、忠告通り上に事の次第を告げなかったのか。上が手を引いているとすれば、いくら黙って自室にいろと言ったところで、何の罰も受けずに済むだろうか。
 部屋に戻る道すがら、カエルムが一番気にしていたのはそのことであった。横で聞いているロスにしてみれば、賛成できる気持ちも確かにあるものの、自らの命を狙われた事実に変わりはないし、現状気にすべきは、次の手が来ないかどうかではないのか、という考えの方が強い。この先一国の上に立つにあたり、若い為政者のこの性格が、甘さとしてむしろ裏目に出ないか危ぶまれた。
 互いの部屋へ向かうのに廊下が分岐したところで、二人は足を止めた。
「明日、日が傾く前にはこっちのことは全て片付ける」
 よくよく耳を澄ましていないと、カエルムの声は聞こえない。
「できれば荒事などは避けたいのだが、そう思い通りにいくとも考えられない」
「でしょうね」
 あのような策を仕掛けてきたのだ。次は正面切った行動に出てもおかしくはない。もしそれが起こるとすれば、明日の会談が最も可能性が高い。すでにテハイザがカエルムの命を狙ったという事実は露呈しているのだ。あの女性の独断としてその罪をなすりつけ、素知らぬ振りをしても無駄なのは自明である。ということは、カエルムを前にして普通の対話を続けることすら具合が悪いはずで、すぐに首を切って捨てたっていいのだ。
「と、いうことだから明日の会談は、正装で」
「ああ、なるほど」
 これまでテハイザの大臣や近衛士団長に呼ばれた時も、非公式な略装ではなくれっきとした公式の服装である。ただ、いまカエルムが言っているのは、国際会談の際にまとう衣装の中でも特に上級のもの——国章が縫い取られた羽織り付きの礼装を指す。
「解りました……って、今夜、そちら行って見張っておきましょうか」
「いや、いい。もし先の失敗が知れていても、それを解った上で、もう一度何か仕掛けるほど愚鈍ではないだろう」
 掌を向けて制止を示すカエルムに、ロスは微笑して頷く。
「それもそうですね。それでは、明日の朝は身支度を整えたら、そちらに参ります」
「寝首を掻かれるなよ」
「そのまま同じ言葉を返します」
 眼と眼だけで笑いを交わし、二人はそれぞれの部屋の方へ踏み出した。

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