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天空の標 第四十二話

第十三章 真意(三)

 差し迫った問題を真剣に案じるカエルムとは対照的に、テハイザ王は心配ない、といったていで懐から小さな円盤を取り出し、立ち上がってカエルムにそれを見せた。
「我が国が先頃発明した羅針盤です。ここから遥かに離れた地で取れた金属片を用いています。我が国の神器と非常に近い性質を持っており……これが北を示す性質があるらしい」
 テハイザ王がてのひらに載せたそれを覗き込むと、皿状になった円盤の中心に面と平行になる形で細長い針が取り付けられていた。そして円のふち近くに四方の名が刻んであり、確かに針は部屋の窓とは反対側——北——を指している。
羅針盤これがあれば、天球儀が止まったとしても航海には困らない。いまのまま動かないとしても、海の生業に支障が出ることはないと思うのです」
「ですが国王陛下」
 国王がゆっくりと座り直すのとほぼ同時に、カエルムが緊迫した面持ちで言葉を重ねた。
「人が作ったものは、残念ながらいずれ壊れる。それにできたばかりの羅針盤機械の精度に疑いが出ないとも限りません」
「しかし現状では何も……」
「これまで人の手が作り出したもので絶対的なものがどれほどありました? 確かに仰る通り、月が満ち欠けするように天は刻一刻と動いています。季節が巡れば星の位置は変わり、それまで見えなかった星座が現れる。それは私達の認識の及ばないものですが、それでもやはり、『確かに』動いているんです。そして今まで天球儀はそれを精確に映し、テハイザ国民に教え、それこそが、民が信を寄せる拠り所だった」
 シレアにもテハイザの天球儀の話は伝わっている。船乗りたちは毎日、天球儀の映し出すその日にしかない星の位置を確認し、昨日とは異なる空の地図を記憶し、帆を張ると。
 普段、滅多に感情を外に表さないカエルムである。しかし今は、若干ではあれ、その語気が強まっていた。
「自己の存在や生活の不安を除くために、人は確かなものを求める。これは人間のさがです。滅多なことでは揺るがない指針があってこそ安寧が保たれる。シレアの時計台がそれだ」
 国で唯一、時を刻み、暦を数える時計台をもってして、シレア国の営みは可能になっている。万人の共通認識として存在するが故に、国の生活を保障する。
「他にも法や規律が作られるのが良い例です。いにしえのテハイザ王が海に自らの位置を尋ねたのも、不確かな危うさを逃れたいからこそではないのですか」
 ——星の道筋を辿り、王、海に天の十字を尋ぬ。その交わりの元に国の都——書庫で読んだ古来の伝説。テハイザの祖先の物語。
「その確固たる指針であった天球儀の意味が失われたら、何が船乗りに安寧を与えるのです」
 海辺の都の人は語る。テハイザの紋章である南十字星がその日に天のどこに現れるのか、海の民は知っている。船乗りたちが海を恐れず、船を波に乗せることができるのは、標があるからこそだと。
 クルックスが恐れに声を震わせながら、カエルムに続いた。
「陛下……水上の光も同じです……太陽の沈んだ夜に航海が可能なのは、あの光が都への道を導くからこそです……!」
 ——天の球、空を映して止まることなし。同じくして陽もまた回り続けん。船乗りよ、波の上にて十字を目指してゆけ。遠き沖より、水の上に光を目指して帰れ——
 王の脳裡に『古伝万象譚』の一説が蘇る。祖国に古くより受け継がれる依代に起こった未曾有の事態。背中が冷えてくるのを感じる。何が次に起こるか分からない、輪郭のない恐怖が襲う。
 この恐怖を受け容れてしまったら、もう眼を逸らして逃れることは出来ない。王は無意識に口走っていた。
「それはそうかもしれないが、これ以上のことが起こらなければ」
「もう起こっているのです」
 なおも迷いのある目つきのテハイザ王の言葉を、カエルムは一刀両断した。
「シレアの時計と地下水が止まりました」
 それを聞いた瞬間、王の瞳孔が大きく開いた。
「シレアの時計とテハイザの天球儀、地下水と水面の光、これらが一時に異変を示しているのです。国王陛下、これは国の中だけで済ませられる問題ではない。明らかな異常事態であり、何らかの秩序が乱れている」
 国王が背もたれから身を離し、顔が強張っていく。色を失った唇がわずかに動く。
「秩序の乱れは……」
「人心を不安にし、不安は混乱へ、そして混乱は暴動を呼びます」
 氷のごとき宣言にテハイザ国王が息を呑んだ時である。
 ガラスを揺るがす羽音がし、明るかった室内に影が射した。窓の外で大鷲が濃茶の羽根を広げ、桟に掴まろうと宙を上下している。
 その脚に括られ風に揺れるのは、紅葉色の鮮やかな組紐——シレア国王女の書簡——

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