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天空の標 第四十五話

第十四章 鳴動(三)

 水道は次第に狭くなっていく。渡り廊下の下は、やっと小舟一つ通れるだけの幅だ。櫂をつくだけの余裕が脇にない。カエルムは渡り廊下の手前で大きく水をひと掻きすると、櫂を船上に横倒しにし、自分も身を屈めた。小舟は勢いをつけて、渡り廊下の下をすり抜けた。
 するとスピカの言う通り、前方に船着場が見えてきた。その奥には丈高い木が並ぶ。そういえば城を取り囲む形で、城下との間を区切る小さな緑地帯があったはずだ。
 船着場の脇には、杭に繋がれて一頭の栃栗毛の馬が佇んでいた。カエルムの愛馬だ。主人の姿を小舟の上に見つけたのだろう。長い首をこちらに回し、尻尾を一振りした。
「私の馬も、スピカが?」
 舟を止めるため、巻いてあった太い縄をばらしていたスピカは、顔を上げて悪戯っ子さながら、口の端を上げる。
「言ってなかったかしら? 馬の世話はあたしがやってるって。鳩も馬も、あたしの言うことはちゃあんと聞くもの。でもあの、とってもいい子だったよ!」
「そうか、それは世話になった。あれにとっては楽しい滞在になったかもしれないね」
 そうこう言っている間に小舟が船着場に着いた。スピカから受け取った縄を杭に縛りつけて舟を固定させると、スピカが軽々と陸へ飛び移る。それに続いて地に降りたカエルムは、手早く馬を繋ぐ紐を杭から外した。
「ありがとうスピカ。助かった」
「それは王子さま、だと思うの。王さまをありがとう」
 スピカは殊勝にも頭を下げた。
「あのテハイザ王陛下なら、大丈夫だと思う。組織を立て直すならば中からだ。その城の中に、近衛師団長もクルックスも……スピカもいるのだから」
 カエルムがスピカと目線を合わせようと足を折ると、顔を上げたスピカは急に大人しくなった。カエルムの蘇芳の瞳の奥底まで見通すように、ひたと濃紺の瞳を一点に定めている。
「あのね、王子さま」
「ん? なにかな」
 この元気の良い少女には珍しく、「えっと、あの」と言いにくそうに繰り返す。黒に近い髪の毛を耳にかけてしばらくいじり、ようやく続きを口にした。
「シレアに行くでしょう。あのね、あたしの、あたしのね……」
 そこまで言ってからまた口をつぐみ、今度は俯きがちの頭をくぃっと力強く上げ、もとの溌剌たる調子で笑顔を作った。
「っと……そう! 王女さまのところに行くでしょう? 王女さま、今度、絶対に、会わせてね!」
 スピカが言おうとしてやめた内容が引っ掛かったが、詮索していいか判らない。カエルムは追究はせず、意志の強い少女の紺色の眼差しをしっかりと受け止めた。
「ああ、わかった。約束する。城の状況を考えると、スピカはもしかしたら厩かどこかに隠れていた方がいいかもしれない。くれぐれも、気をつけて」
「やだな、あたしはこの城については詳しいって言ったでしょ?」
 スピカの調子はすっかり先と同じに戻っていた。
「どこが一番安全かも、クルックス兄さんにどうやったらちゃんと会えるかも、あたしは全部分かってるから大丈夫! 王子さまこそ気をつけて。この林を抜けたら街に出るから、そこから一気に坂を登って。検問のおじさんたちの相手くらいは、簡単でしょ?」
「ああ、問題ない。秘密の抜け道だな。礼を言う」
 弾みをつけて馬に飛び乗ると、カエルムは馬の腹に軽く合図を入れた。走り出した馬の背から後ろを振り返って手を振る。みるみる小さくなっていく少女が、両腕を上に伸ばして大きく振り返していた。
 太陽はもう、地平線のそばまで降りてきている。今宵は新月。黄昏の光が地上から消え去る前に、テハイザ領を抜けたい。

 ***

「まったく……いったい、こっちの仲間はどのくらい城内に残ってるんだ」
 カエルムが降りて行った後、頭上の足音は先よりも数を増やし、大きくなっていた。
「どうでしょう。王に忠誠を誓った官の多くは地方へやられてしまいましたし……割合にして二対八くらいでしょうか。大体は心から大臣側に着くと言うより、うまいこと操作されているみたいですけれど」
 反対勢力はまだ上階にたむろして降りて来ない。露台に出てしまえば縄なりなんなりで簡単に下へ降りれそうなものだとロスが疑問を述べると、クルックスは裏のある笑みを作って懐から鍵を取り出した。
「上の出入口、鍵に細工しておきましたから。まあ、向こうが扉を壊してしまおうと思い切るまでの、短い時間稼ぎにしかなりませんけどね」
「へぇ……なかなか君も……っ!?」
 言い掛けたロスの言葉は、突然の衝撃に続きを遮られた。ドォンという地から迫り上げるような重い響きとともに、床が、いや、城そのものが大きく揺れたのである。
 クルックスとテハイザ王も体の均衡を崩し、椅子や床に手をついた。揺れが建築材を伝って上がってくる。部屋を覆う硝子ガラスが細かく揺れ、地鳴りが鼓膜を圧迫する。
 窓からの陽の光が、あかみを増して大理石を鮮烈に照らす。日が暮れるのだ。数十秒間の震動が続く間に、上空の空に紫紺しこんの色が広く浸食し、水平線の際に鮮明な紅の線が引かれる。
 太陽の半円がついに海の下へ姿を隠したとき、揺れは収まった——それと同時に、頭上でがたっ、という嫌な音がする。
「ああ……来ちゃいそうだね」
 今の震動で扉がずれたのか、どこかが外れたらしい。もう一度、何かを打ち付ける音がしたかと思えば、その次にはもう、男たちの足音が露台に出てきたのが聞こえた。

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