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猫とおっさんと私の話

 年端もいっていない頃から一日中、寝てばかりいる。少し動いたと思えば私の進路を妨害するような動きばかりする。どんなに洒落たベッドを買ってあげても、母から送られてきたフルーツが入っていた『くだもの王国 ぶどう』と書かれた入り口がややすぼまった段ボールで寝る。鈍臭い。腹が減ればうるさく喚く。毛並みが良い長毛は艶があり、見た目だけはいい。
 そんな猫がうちにはいる。
 この猫が我が家にやって来るまで、私は猫を飼った経験がない。両親、妹たちと住んでいる時にはおそらく、「猫が飼いたい」と口にしたこともないと思う。可愛いと思ったことはある。
 私の父は、物事を二元的に語る人だった(今もそうなのかはわからない)。そんな父は、犬が好きだった。父の中で犬の対極にいるものは猫で、己の中の善(犬)と対極にある悪(猫)を嫌うことは自然なことだったように思う。ことあるごとに、苦虫を噛み潰したような顔で猫の悪口を言っていた。だから私は、最初は可愛いと思っていた猫に対して「猫ってあんまり可愛くないんだなぁー、よくわかんないけど」というような認識を持つようになった。私の中で「猫可愛い、飼いたい」と口にすることは、二元論的な父に対してルール違反を犯すことだと思っていた。悪を支持する人間になってしまうのだと思っていた。
 友達の家の猫(当時は外飼いが主流だったので、ぶっちゃけ汚ねぇなと思っていた)を見たところで特別構いたいとは思わなかったし、友達と遊んでいる時に河川敷公園で捨て猫を拾った時も、自分の家で飼いたいとは思わなかった。わざわざ嫌わないけれど、特別意識的に関わろうとしたくなる存在ではないのが猫だった。

***

 私が、“猫”という生き物を強く意識したのは、二十一歳の時だったと思う。
 当時の私は、家の近所の商店街にある焼き鳥屋でアルバイトをしていた。ホールで採用されたが、なぜかたびたびカウンターと対面になっている揚げ場をやらされるようになり、一つ下の女の子から「私の方が先に入ったのに。なんでホール以外のことやらせてもらえるの!」と直接悪態をつかれて、知らねぇよボケカスそういうこと本人に口にして今までさりげなくトラブル多い人生だっただろ? と、毎回思っていた。そして「知らねぇし」と口に出してもいた。私自身もまた、トラブルの多い人生を歩んできたのだ。
 この時、私は初めて“ホールより調理が格上”という謎の認識を持っている人間がいることを知った。正しい認識なのか、間違った認識なのかはいまだにわからないが、死ぬほどどうでも良かった。
 ちなみになぜかその子とはわりと仲良くやっていて、その子の親と飲みに行ったり、私の幼なじみを紹介したりしていた(すぐ別れていたが)。

 焼き鳥屋での女子とのさわっと不穏なやり取りは置いておいて、猫だ。
 私は焼き鳥屋でラストまでシフトに入っていることが多く、その日も私は夜中の二時過ぎまで働き、社員の人やもう一人ラストまで入っていたバイトの三人で店で酒を飲んで帰った。外はもう、うっすらと明るくなっていたと思う。
 焼き鳥屋のある商店街を出て坂を上がり、最寄り駅の前を通り過ぎて跨線橋を渡る。橋を渡り切ったら横断歩道を渡り、すぐに現れる階段を降りる。大きな道路に沿った、その階段下の道に入ると人通りはグッと少なくなる。その道沿いに、小学生しか遊びに来ないような、小さな公園があった。
 私はなんとなくベンチに腰を下ろして、息を吐く。もう朝方でぼんやりと明るくなった空間に、私の息は白くもやを作らない。たしか、夏近くだったから。白い息の一つでも吐けば情緒的にもなろうが、化粧の濃い女子大生が薄暗い公園で一人ベンチに座っても、なんの哀愁も漂わない。ただ遊んで帰ってきた酔っ払いに見えるだけだろう。

 この時の私は、“若者の悩みテンプレート集”に出てきそうな、悩みやもやもやを抱えていた。
 私の世代の就活なんてもう何ヶ月も前からスタートしているのに、私は大学四年生の春を過ぎても、ほとんど何もしていなかった。所属していた憲法のゼミの教授にも「不知火さんは、あの子は大丈夫なの?」と陰で心配されるほど、なんの激しさも持ち合わせず静かにルートから外れていきそうな雰囲気をまとっていたと思う。髪の毛の色も、相変わらず明るいままだった。
 私は、就活に対して盲目になれないでいたのだ。仕事をしたくないわけではないけれど、たかが仕事を決めるためだけに、髪の毛を黒くして可愛く見えない化粧をするのが嫌だった。どんな仕事も、業界が違うだけでどれも同じに見えて、上手に選ぶこともできない。たった数ヶ月、盲目になって就活に突っ走ったその結果が、一生を決めるような気がして怖かった。実際は全くそうではないのだが、若い私にとってどこかに就職することは一生を縛り付けられることと同義に思えて、そんな得体の知れない恐ろしいもののために、滅私して数ヶ月を過ごすことが耐えられなかった。だからといって、このまま焼き鳥屋でバイトを続けて行くことも、不安だったし嫌だった。
 だんだん、淡々と、時に一喜一憂して生き生きしながら就活を進める周囲の子たちの思考も理解できなくなり、大学に行くのが嫌になった。
 当時の私は、「自分で自分のケツが拭けるなら、何をやってもいい」ということを知らない子どもだったのだ(これに気がついたのは二十代後半になってからだった)。ずっと「私は自分で自分のケツが拭けるのに、どうして好きなことをしてはいけないのだろう」と、なんの根拠もなくそう思い込んでいた。“本当は皆と同じようにしなければいけない”のに、“皆のようになれない”という対立する二つの、当時は事実に思えた空想を抱えて、私は私を縛り付けていた。せっかく首都圏の大学に出して一人暮らしさせてもらっているのに、親にとって期待外れの思想しか持ち合わせず落胆させる行動しか取れない娘でしかいられないことに絶望しながら、それでもどうにか思い通りに自分勝手を貫きたくて、苦しんでいた。
 いつもバイト帰りの公園で一人、こんなことばかり考えて、完全に明るくなるのを待っていた。そして、通勤や通学のために駅に向かう人たちとは逆方向に歩いて家に帰る。私のささやかかつ、ありきたりな“反抗”だった。

 バイトの帰り、たびたび見かけるホームレスのおっさんが、この日も私の目の前を自転車で横切った。いつも自転車に潰した空き缶を山のように積んでいた。決してこちらに目を向けない、無害なおっさんだ(女子高生、女子大生時代は基本、おっさんを有害だと思っている時期がある。実際、若い女は有害なおっさんによる唐突なハラスメントに遭っていることも多い)。
 この日は、おっさんと私といういつメン以外に、もう一人、この公園に姿を現した。いや、もう一匹というのが極めて正しい。猫だから。
 サバ白の痩せた猫は公園のほとんど真ん中にちょこんとおすわりして、私を見ている。当時の私は常にイライラしていたから、少々「何見てんだよ。こちとらオメーのことなんて一切意識してねーんだが?」という気持ちを抱いた。
 それなのに、なぜか私の口をついて出た言葉は、

「おいで。」

だった。
 しばらくその猫との睨み合いが続く。互いに無表情で一分くらい見つめ合っていたと思う。だんだんと私の方は「いや、呼んでやってんだけど。来ないならいいです」、そんな気持ちになってマルボロに火を付ける。
 昇った太陽の光が鬱陶しくなってきたら、帰宅の合図だ。今くわえている一本を吸ったら帰ろう。まだ三口目程度だったマルボロの煙を吐いて、そう思った。
 マルボロを挟んだ左手をベンチに置いて、息を吐く。やっと私の口からは白い息が漏れるが、すでにその白さが映える黒の背景は消え去っていた。
 ふと、サンダルを履いた足元が、ゾワァ〜っと毛羽だった感覚がした。私が「ああ、さっきの猫が来たのだ」と認識するより前に視界に猫が入り、くるぶし辺りに走った“動物感”に私は「うお」と間抜けな声を上げた。
 サバ白の猫が私の右くるぶしに体を擦り付けるように通り過ぎた後、私の両足の間を通り抜けて、私の顔を見上げた。なんだか、赤ちゃんを目の前にして煙草を吸っているような感覚になる。
 いたたまれなくなって、サバ白からできるだけ離れた場所、しかしできるだけ奴が触れている私の足の位置を動かさなくて済むギリギリの地面に、煙草を押し付けて火を消した。
 「何?」
私は、小さく問いかける。動物相手に会話している様子を周囲にわかられたくなくて、大して目線を合わせようともしなかった。
 猫は私に対して何も声を上げなかったけれど、おそらく「ご飯欲しいなぁ〜」みたいな気持ちを表現しているのだろうということはわかった。しかし、その時の私は何も食べるものなんて持っていなかったのだ。こんな時、人が口にする言葉はいつもいやに哀愁がわざとらしく、ありきたりだ。

「ごめんね、私、何も持ってないの。」

皆と同じように行動できないはずの私が、いかにもありそうなセリフを吐いてシーンに迎合していた。でも、本心だったと思う。私には情熱も目標もない。盲目さも狡猾さも、何も持っていなかった。

 私と“軍曹”は、バイトの帰りによく顔を合わせるようになった。軍曹というあだ名は、私が当時バイトの人たちと一緒にやっていた『機動戦士ガンダム〜戦場の絆〜』での私の階級が軍曹だったからだ。「最近、公園で馴染みの猫がいるんです(ホームレスのおっさんも)」と私がバイト先でぽろっと口にしたことで、「じゃあその猫、軍曹でいいじゃん」と雑にあだ名がついた。
 私が公園に到着すると、軍曹は当たり前のように私に近づいてくる。私が近くのローソンで購入した猫缶を開けてくれると知っているからだ。だから私は、彼(彼女?)を「軍曹」と本人に対して呼んだことはないと思う。呼ぶ前に来るから。
 私と軍曹の間に会話はなかった。私は猫缶を食べている軍曹に声をかけることもなかったし、軍曹も私の顔を見上げて猫撫で声を上げることもなかった。軍曹は黙々と猫缶に顔を突っ込んで、私はただその様子を無表情で眺めていた。
 状況は何も変わっていなかった。私は相変わらずろくに就活もせずに、週四くらいで焼き鳥屋のバイトに行って、本当にやむを得ない事情がある時だけ大学に行き、あまり人に会わず昼はほとんど寝て過ごした。週に二回ほど、朝方の公園で猫缶を頬張る軍曹を眺めながら、何本か煙草を吸って帰ることが、習慣になった程度だ。
 その日も、おっさんは公園に現れた。オイルが差されておらず少しブレーキを握るだけで大きな音を立てる自転車に、空き缶を大量に乗せて。しかし、この日のおっさんはいつもと少しだけ、違った。
 おっさんの自転車が、私と軍曹の目の前で大きなブレーキ音を立てる。私は煙草の煙を吐きながら静かに驚いていたが、軍曹はおっさんに目もくれず相変わらず猫缶に夢中だった。
 「野良猫にエサあげちゃだめだよ。」
おっさんは自転車に跨ったまま、私の顔を見てそう言った。表情の変化が乏しく声にも抑揚がなかったから、怒っているのか笑っているのかもわからなかった。
「……すみません。」
「あと缶は、捨てる時は洗ってからあのゴミ箱に入れて。」
「ああ……はあ。」
ええー……それってあんたが後から拾うためですよね? その質問は、グッと喉の奥にしまいこむ。
 おっさんはその二言を私に告げて、また自転車を走らせて公園の奥の路地に消えていった。「面倒くせー……」と思ったし、口にした気がする。この瞬間、私の中でおっさんが、わずかに有害化した。
 私は、その場でできたルールを真正面から破るような行動をするのは苦手だった。この日以来、私はおっさんが現れる時間の前に軍曹に会いにいくようになり猫缶はきちんと洗って公園のゴミ箱に捨てるようになった。ある日ふと昼前くらいに公園に立ち寄った機会にゴミ箱を覗くと、私が捨てた猫缶もろとも、綺麗さっぱりアルミ缶はなくなっていた。
 私は、いつメンの誰も損をしないこのささやかなルール違反を、しばらく続けた。

 その後、私は卒業の土壇場で渋谷にあるアパレルの会社に就職が決まった。本格的に社員になる前にバイトとして職場に入ることになり、焼き鳥屋のバイトも辞めた。昼夜逆転気味だった生活を無理矢理ながらもさらに逆転させ、朝に駅に向かう人の流れに乗って渋谷に向かい、夜はその逆に駅からポンプで排出されたように出てくる人の波に乗って跨線橋を家の方向に渡った。一度、渋谷からの帰りに焼き鳥屋のバイトの男の子とすれ違った時、「真人間になったな」と笑われた。
 私は、ぼんやりと軍曹のことを気にかけていたのだ。しばらく、公園に立ち寄ることができていなかった。そもそも私が余裕を持って公園に立ち寄れる時間帯は、以前とは違い夜の二十二時とか、そんな時間帯だ。軍曹がその時間、公園にいるのかどうかわからなかった。
 ある日、プロパー商品の検品だか、陳列だか、そんな事情のために、いつもよりも一時間半近く早く家を出なければいけないことがあった。
 口から漏れる息は煙草なんて吸っていなくても、白くなる程度には肌寒い。周囲の薄暗い藍色に、白い息はよく映える。
「あ。」
ふと、私は小さく声を漏らした。公園が目に入って、「あーローソンで猫缶買ってくれば良かった。てか、もうちょっと早く出れば良かったな」そう思った。この時間なら、軍曹がいるかもしれないと思ったから。
 歩みを進めると、私が歩く路地を背にしたベンチの横に、黒い自転車が見えた。こちらに背を向けるようにベンチの端に座っていたのは、紛れもなくおっさんだった。白い息を吐いて、そのまま前にうずくまるような体勢になる。
 私はなんとなく、おっさんに認識されないように気配を殺しておっさんの後ろを通る。チラチラとおっさんの様子を伺っていると、うずくまったおっさんが手を伸ばす先に、藍色の景色に映える白い塊があった。
 軍曹だった。私があげていたものと同じ猫缶に顔を突っ込んで夢中で中身を頬張っている。おっさんはそんな軍曹の頭を指先で撫でていた。
 思わず私が歩みを止めた瞬間、軍曹が顔をあげる。しばらくそのまま数秒、軍曹と私の目が合う。
 軍曹が猫缶から口を離して、突然視線を明後日の方向に向けたせいだろう。おっさんが、その視線の向く先を探してこちらを振り向いた。私の顔を見たおっさんは、相変わらず感情が読み取れない表情で私に会釈をする。
「お仕事ですか。」
「……はい。」
きっとその場を取り繕うために、おっさんはどうでもいいことを私に聞いた。
「高いですね。猫のエサ。」
「はあ。」
「ご苦労様です。」
「いえ、ご苦労様です。」
おっさんと私は、次の瞬間には忘れてしまいそうななんでもない会話をして、そして会釈をする。
 軍曹がすでに私から視線を外し、猫缶に顔を向けている様子を確認して、私はその場を後にした。階段を上がって横断歩道を渡り、跨線橋を駅の方向に歩く。まだ、駅に向かう人はほとんどいなかった。

***

「可愛いね、猫もいいね。」
私の家の床に座って、母が我が家の猫の背中を撫でる。猫も、人懐っこく、その場にいる父や母、妹の体に寄り添うように通り抜けて、愛想を振りまいていた。
 あれだけ「猫を飼う奴の神経が知れない」と話していた父が、猫を撫でている。そしてふと、信じがたい発言をする。
「お姉ちゃん(私)は、昔から猫を飼いたがってからな。」
そう、父は言った。
「え、うそ? そんなこと言ってた?」
「うん、言ってた。」
私が記憶違いをしているのか、はたまた父が記憶を改変しているのか。定かではないが、ここに来て、私は昔から目の前にあるぼんやりとしたルールを破って生きていた可能性が浮上した。
 よくよく考えたら、自分で自分のケツを拭けない子どもが「猫を飼いたい」と言っても、その意思が保護者のものと一致していなければ却下されるのは当たり前だ。私の願望を諦めさせるために、父は激しい言葉で猫を非難したのか。いや、きっと父は本当にただその時、猫が好きではなかったのだろう。ただ少なくとも、「猫を飼いたい」という言葉を口にしてはいけないなんて暗黙のルールは、存在していなかったのではないかと思う。
 子どもだった私は、幻想を抱えていた。「私は自分で自分のケツが拭けるのに、一生誰かのルールに従って生きなければいけないのだ」「どうして私はこんなに窮屈なのだ」という幻想を抱いて生きていた。
 そんなものは幻想なのだ。自分で自分のケツが拭けるのならば、自分の人生はどうにでもできると、月並みで臭いことを、今は思っている。でもやっぱり当時の私はまだ、“自分で自分のケツが拭けない子ども”だったのだ。あの公園で、私が“子ども”であることを示していたのは、おっさんのあの言葉だった。

「野良猫にエサあげちゃだめだよ。」

 おっさんは私に空いた猫缶を洗わせてそれを拾い、私の足が公園から遠のくと、今度は自分が軍曹にエサをあげた。おっさんの言葉と行動が、私がどれだけ軍曹に対して無責任な子どもじみたことをしていたかを示す、全てであったように思う。
 猫を撫でる。猫は座った私の太ももにすり寄って横になり、世の中のことにも半径一メートル以内のことにすらも興味がなさそうに、あくびをした。


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