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【小説】人の振り見て我が振り直せ  ちょっと休憩ブログ編 〜昭和世代の人間が後世に残したいもの〜

 大型連休も過ぎ、これからエアコンの必要な暑い夏がやってくるのを想像すると、なんだかおっくうになるのは私だけでしょうか?

 暑くもなく、寒くもなく、適温でいいのに…と、わがままなことをつい思ってしまいます…。

 皆さんはいかがお過ごしでしょうか?

 今日は少々真面目な話をします(笑)。

 以前のブログ編にも書きましたが、主人公の茉莉花は実在する人物がモデルになっています。もしかしたら「本当にこんな人いるの?」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。しかし、実際に存在するのです。

 障がいというカテゴリーに入れてしまえば、簡単に思えるかもしれませんが、はたして茉莉花の場合は、本当にそれでよいのか疑問に思うのです。

 多かれ少なかれ、自分も含めて、人は誰でもその障がいになり得る要素はあるのだろうと思います。それが強く出るのか、そうでないかの違いなのかもしれないと。

 しかし、茉莉花の場合は〝策略〟のようなものが見え隠れするのです。

 そもそも〝策略〟ならば、本来、相手にわからないように、巧妙に実行するべきだと思うのですが、詰めが甘すぎて(例えば、面倒な仕事がある日に急に具合が悪いと休んだのに、翌日出勤したら髪の毛の色が変わっているとか)わかり易くて呆れるくらい、ズル休みが周りに気づかれてしまっているのだから、結局のところ〝策略〟ではないのかもしれませんね。

 それなのに翌日は〝あたかも昨日は具合が悪かったアピール〟を異常なくらいするのです。

 それがあまりに滑稽(バカバカしくておかしいこと)すぎて、良い言い方ではありませんが〝どうせズル休みをするのなら、バレないようにやればよいのに〟と周りは残念に思うのです。

 だからこそ、それが周りに気づかれていることに〝本人が全く気がついていない〟ということ自体に〝言いようのない危機感〟みたいなものを感じてしまうのです。

 そこには若い世代だけではなく、社会全体的な〝コミュニケーション能力の著しい低下〟が原因ではないかと私は思っています。

 茉莉花に限らず、最近のあくまで私が目にした〝ごく一部〟の皆さんに過ぎませんが、

 承認欲求ばかりが強すぎて、相手を立場を低くすることで自分が上に立った気になってるだけのマウンティングに終始する人、

 自分さえ良ければ他人はどうなっても平気で、人の痛みがわからない人、わかろうとしない人、

 物事をうわべだけでしか判断しないため、相手がどういう意図ををもって行動しているのか見抜くことが出来ない人、

 自らやるべきことを全うしない自分の怠惰を棚に上げ、権利ばかりを主張し〝パワハラだ、セクハラだ〟と言う人、

 仕事中にスマホばかり見て、職務専念義務を怠り、注意されると無視したり攻撃する人、

 言われたことだけやってれば文句ないですよね?という態度で、周囲への気づかいや、仕事に対する向上心がない人、

 面倒な仕事や物事から、あからさまに逃げる人、

 そういう人たちが増えている気がしています。

 いい意味での〝裏読み〟する力がないのかもしれませんね。

 例えば、(こういう時にこう言ったら相手が傷つくかな?だから、少しオブラートな包んで言ってみよう)とか、(明日仕事を休んだら、同僚に迷惑かけちゃうかもな?だから、今日のうちにある程度自分の出来る範囲の仕事は終わらせておこう)など、些細なことかもしれませんが、そういう〝裏読み〟ができるからこそ、相手を思いやり、良好なコミュニケーションを築くことができるのではないかと私は思います。

 そして、それが出来る人は、まわりがキチンと見ていて困ったときには助けてくれるものです。

 では〝裏読みする力〟はどう養えばよいのか、という問題は、やはり〝気づく能力〟を養うことが必要なのではないでしょうか。

 〝気づく能力〟は生まれながらにもともと備わっている人もいるかもしれませんが、人とのコミュニケーションの積み重ねによる人生の経験を通して、学んでいくものなのではないでしょうか。
 そして、その速度は人それぞれであっても、より良い良質な環境に身を置くこと(悪い事例から学んで、自らを柔軟に良い方向へ変化させること)を選択する事によって、養うことが出来るのではないかと私は思います。

 結局、対面での良質なコミュニケーションで学んでいくしかないように思うのです。
  
 例えば〝言葉をかわさなくてもなんとなくわかる〟という、長年連れ添った夫婦のような感覚を経験する時はないでしょうか?
 そこにはいわゆる空気感みたいなものが存在し、逆に、何か違和感を感じると〝あの人は空気が読めない人だ〟と表現することはありませんか?

 これはあくまで、私の主観なのですが、

 私たちの生活の中で欠かせない、パソコンやスマホなどのデジタル機器は、コミュニケーションツールとしての役割も果たしていますが、動画ですら、その〝微妙なニュアンスの空気感〟は伝わりづらいのではないかと思うのです。

 昭和の人間は古いと言われそうですが…。

 伝わりづらいから、違和感に気づけず、詐欺にあってお金をだまし取られたり、闇バイトに簡単に手を出してしまったり、いわゆるフェイクにも気づけずに信じてしまうのではないでしょうか。

 スピリチュアル的なことはよくわからないのですが、〝別のなにか〟が言葉以外の空気にのって相手に伝わって、その〝別のなにか〟を受け取った人が集まってくる、引き寄せの法則のような、類は友を呼ぶみたいなものが、空気として存在しているような気がするのです。

 私はこの投稿上で、その微妙なニュアンスの〝別のなにか〟が少しでも伝わるように、未熟ではありますが、言葉や活字に最大限のせて表現する努力と挑戦をしています。ひいては、それを表現するのが目的と言っても過言ではありません。
 言葉の受け取り側によって、認識が変わってしまうのは、重々承知の上ではあるのですが。

 〝気づく能力不足〟は悪循環を生んでいくような気がしています。

 言葉の表面だけを受け取って、〝別のなにか〟は受け取らない、受け取れない。だから理解力も表現力も乏しくなって、本来伝えたいことが伝わらないし、伝えられない。

 インプットの質もアウトプットの質も低下することで、コミュニケーションがうまく取れない人たちが、水面下で増殖しているのではないでしょうか。

 近年、若い世代の自殺者が増えていると聞きます。そこには、そういう〝うわべだけの言葉の行き違い〟が関係しているのかもしれません。

 投稿していく中で、言葉や活字で表現する大変さをつくづく感じます。今まで何気なく考えていたことを言葉や活字で表現するのは、思いの外スルスルと書くことは出来ても、いざ投稿することを考えると慎重にならなければならないと、何度も読み直します。それは、読んでくださる方々のことを考えるからです。

 そんなの気にしないで書けばいいと思われる方もいらっしゃるかと思いますが、〝相手を想像して言葉を選ぶこと〟そのものが、コミュニケーションの出発点ではないかと、私は考えています。
 
 これこそ、私自身の挑戦なのです。

 〝何かに気づいて考える機会〟に私はこだわっています。大げさに聞こえるかもしれませんが、昭和世代の人間が後世に残したいものは、シンプルに〝相手を思いやり、良好なコミュニケーションを築くことを忘れないでほしい〟それにつきます。

 実際に、仮想空間の中でアバター同士で交流したり、結婚したり、肉体が消滅して脳と意識だけが残る時代が来るかもしれません。そうした時代が来たとしても、人間の意識の根本は変わらないと信じたいのです。そして、肉体と意識が一致している今だからこそ出来る〝相手を思いやること〟を忘れないでほしいのです。

 最後に、これからの時代を生きる若い世代の皆さんは、今よりもっと生きづらい世の中を、生き抜いていかなければならないのかもしれません。

 それでも、私たちは今を生きています。今の行動が未来を作っていくのだと思います。

 私自身もこの投稿に出会ってくれた皆さんとともに、何かに気づき、成長していきたいと考えておりますので、今後もお付き合いいただけると幸いです。

 ではまた、次回のブログ編で。
 少し内容がクドくなりました(笑)

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