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素朴な疑問。

「がんばる」というのは、
主観的なものなのかもしれないと、
最近思う。

自分の中にある、
知識や認識の範囲内でしか、
人は「がんば」れない。

少なくとも、
自分の意思や意図を伴って、
「がんばる」時には、

行動目標が自分の中に、
明確に描けていて、
初めて成り立つのだと思う。

その、前提の上での、疑問。

高い結果を出せる人のもとには、
同じくらい高い結果を出せる人々が、
近くにいるように思う。

たとえば、その「高い」というのは、
物事の優劣を意味するのではない。

けれど、学校教育の上でも、
同じ試験問題を前にして、
スコアを測られることは、
なんら珍しい事ではなくて、

そのスコアをもとに、
歩める人生というものがあれば、
歩めない人生というものもある。

それが、現実だと思った。

そして、その意味で、
改めて、考えたい事がある。

習い事でも、何でも良い。
ネット動画でも、何でも良い。

「ノウハウ」というものに出会えた瞬間、
一瞬にして解決出来る悩みは、
確かに存在するのだと思う。

「一生懸命」とか、「がんばる」とか、
自転車のスタンドを外さないまま、
必死にこぎ続けていても、

1mmも前に進めない。

こいでいる本人は、
相当に一生懸命で、エネルギー消費を、
するかもしれないけれど…。

つまり、まずは、
このような現実的視点を、
持てるかどうかも、

1つの境界なのだと思う。

事象を理解することもなく、
目的意識を明確に持つこともなく、

「がんばる」とは、
何に対して「がんばる」のか?

充電時間が長いわりに、
アプリ起動が遅くて、
バッテリーが保たないとしたら?

でも、スマホはきっと、
「がんばって」いるのだと思う。

調律してもらえない楽器も、
「がんばって」いるのだと思う。

そんな電子機器も、楽器も、
時にとても愛おしいけれど…。

愛着と性能は、別問題でもある。



私自身を振り返って思うのは、
そういうことを、知らなかった。

「がんばる」前に、
「がんばり方」を、学ぶ必要性を、
知らなかったから、

だいぶ遠回りしてきたのだと思う。

でも、良いかどうかは別として、
物事に対する立体的側面をも、
加味できる様になって思うのは、
(少なくとも、過去の自分よりの意で)

「なんだ、そんな事どっちだって同じじゃない?」

と、思っていたことほど、
長い目で見れば、大切なキーポイントだった。

そして、今まだ知らない事が、
日常の中に沢山あるのだろうと思うと、

やはり、学びたいと思う。

結局のところ、何でも、
良し悪しで判断するというより、

自分はどちらが好きか?なのだと思う。


言葉は難しい。

駅と駅の間で途中下車したいような、 
言葉と言葉の間が欲しい時が多い。


自分の人生は、
自分で決められる。

いや、それだって、
必ずしも、そうでもない。

それでも、

「自分で決められる」ように
なりたいと思うのなら、

今の時点から何か、
手に入れてゆきたいものが、
あるとしたなら、

次なる一歩に続く選択もまた


自分で考える必要が、
きっとあるのだと思う。


それは時に、
「受け入れる」ことだけを
意味するのでもなく、
時には「受け入れない」ことであり、

そうかとは思うけれど保留にする
「受け留める」でも、あるかもしれない。

いずれも、無条件に、
受け入れ「なければならない」訳でもない。


そして、本当の自由とは、

何1つ決まっていない、
最も自分の意思が問われる世界だとも、
気付かされる。


そんな考え方さえ、


しないのも、自由。



無重力空間の、宇宙みたいな選択肢が、
無限に広がった時に、


自分で決めるというのは、
どれほど勇気が要ることかと思う。


いや、ただ、シンプルに考えよう。


心の声に、




耳を澄ませて。



他の誰でもなく、

私は、どうしたいのかと。
なにを、望むのかと。

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