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言いたい放題と議論は違う

私は、オーストラリアの教育機関(語学学校、専門学校、大学)に通っている間、意見をあげてそれを議論する機会が何度もありました。

言語は英語ですが、人種とバックグラウンドは様々でした。

日本での私は、おそらく平均的な人達よりは意見を言ったりみんなで議論をする機会がある場所にいたと思います。けれども、英語圏の人ほどは沢山そんな場所が与えられていたわけではありません。なので、最初はちょっと匙加減も分からない状態でした。

しかも、英語で議論した機会は日本を離れるまでは指折り数えるくらいしかなかったので少し緊張もしていました。

けれど、場数を踏み

“なんだ!こんなものか!”

と正直言って大したことないなと思えるようになって緊張感は全くなくなった。

それはどういう訳か。

議論をしているように見えても、ただ言いたい放題に自分の意見を解き放ち、なんの根拠もなく押し付けて勝ち負けを決めるように一方的に喋る人がまあまあ多いと気づいたからに他ならない。

最初は、語学学校レベルだから低レベルなのかなとか思ったけど、専門、大学に進んでもちゃんと出来ている人の比率はそんなに高くないなと肌感覚で知ったからが理由。

そして、専門学校と大学では意見がまとめられなくて論理的に喋れないただのお喋りは、科目の落第者も多くそれ以外は留年とか退学者もいた。

それか、グループでやる提出物で他人に迷惑かけながらなんとか切り抜けている人達で別に議論など出来ている訳ではない人々。優秀者からしたら多く負担を強いられる憎まれる存在だった。

私がこういう例をあげて言いたかったことは、多く喋ることができる人が必ずしも議論ができる訳ではないし、本当に頭が優秀かは分からないという事実だ。

言いたいこと吐いただけで出来るつもりになってバカに磨きがかかる層もまあまあいるから、大したことではない

英語圏の人は意見を戦わせるのが上手いと思い込んでいる人がいると私はそれに大変疑問を持っている。もっと主語が大きいと世界がとか言う人もいるのだが……笑いが止まらない。世界を知らないだろうと……

もちろん、英語圏の教育は意見を言わせたり議論させる機会を多く設けているがそれに本当の意味でついていけている人はそこまでは多くない。

だからこそ、出来る人は一目置かれる。
それに議論には相手が必ずいるんだから、双方共に優秀でなければちゃんとした議論は成り立たないのが当然というもの。

いくら片方が論理的に自分の考えを組み立てても、その相手がただの言いたい放題の一方通行であれば議論など全く成り立たない。

これは英語力とは関係ないとどれだけの人が気付いているのだろうか?

英語圏で議論したことない人が、英語圏の人は意見言ったり議論が出来ると言ったらとても滑稽だ。私が見てきた状況はだいぶ違う。

英語がいくら流暢に喋れるネーティブスピーカーでも、論理的に考えることが全くできない頭の質ならただの言いたい放題をしているだけなんだ。
そういう人が議論の場所に入り込めば、いくら優秀な人がいようが大して冷静な議論など成り立たない。
これは私が体験してきた事実なんだよね。

これを日本に当てはめたらどうだろう。
いくら日本語が出来て言葉巧みでも、冷静な議論が全体で成り立っている場はどれだけあるのかなと思う。

自分の感情を制御せず、好き嫌いでものを判断し全く論理的に考えることができない人が議論の場に混じれば場は乱れていく。

英語と日本語どちらでも同じこと。
これに気づくことがスタートだ。

日本語でできない人が英語でできるようになる訳はないよって話にもなる。

日本人は英語の聞き取りがとても弱い人が多い。だから、英語で意見を戦わせている議論の場に出くわしたりそんな音声や動画を見たりなどすると、“わー!この人達は、すごい意見があって議論できてる!!”となんも考えず勘違いしがちだ。

しかし英語圏でも、物事の本質を見極め、論理的に思考することができない。すなわちクリティカルシンキングができない層が多いと嘆き問題にしている人もいる。

「言いたい放題と議論は違う」は世界的な問題。

そして、議論は同レベルでしかなかなか成り立たずにすごく難しいものだ…

だから、課題にせねばいけないんだ。

英語とか英語圏とかそういう問題でもない。


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