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「異」を受け入れる姿勢

英語を学んでいる人達の中で苦痛に感じている人は多い。

それはなぜか?

原因はいろいろあるだろうけど、そのひとつとして快適じゃないというのもあるだろう。

何もかもが「異」だからだ。

音、文字、文の成り立ち、リズム全てにおいて

それに加えて、それを発する人も自分と異なる場合は多いだろう。当然だ。

人は似ている部分が多ければ多いほど、心理的な壁は少ない。安心感はある。慣れやすい。
ごくごく当たり前な事である。
意見もあいやすいし、例えちがったとしても何故そういう意見に相手が至ったのか納得しやすい。
コミュニケーションの手法も読みやすいことになる。

だから英語を学んでいて不快になったり嫌になったり慣れないという気持ちが強い人は「異」を受け入れる気持ちが足りない場合もあると思う。

それはどうしてだろう?

ちょっと立ち止まり考えることは、とても良いことだ。

これは英語に限ったことではない。

目の前の人が、

どうしてそういう態度を取るのか?
どうしてそういう言葉を使うのか?
どうしてそういう言い回しをしているのか?

想像力を働かせるということだ。

そして勝手に決めつけないことだ。

この能力があればあるほど、「異」を受け入れやすい。

不快に思うということは、違う部分が多いということ。

自分には不快でも相手には快感であるなんて全然起こることだし、それが当然のはずだ。

双方どちらも否定されては辻褄は合わない

英語話者が日本語の音を聞いて不快に思ったり、カタカナ英語を笑ったりするその仕組みは、英語を学ぶのを苦痛に感じる人の一部分の「異」に反応しているという点では似通っているって訳。

私は英語を使えるようになるというメカニズムは、この「異」を受け入れる姿勢の強化に繋がるとも思っている。
逆に言えば、異物を極端に排除する人であればあるほど英語を使えるようになるまでに時間がかかるとも思う。

日本人が「和」を重んじる文化的背景が、みんな同じであるという幻想を抱かせている。
そのせいで、英語を使うのにめちゃくちゃ苦労している人が多いように思うこともある。

英語は国際語とされていて、いろんな「異」となる人が使う言語だ。

どうしてそう言うんだろう?
どうしてそういうアクションを取るんだろう?

興味を持つと、その違いはとても魅力があり楽しいものと変わるはずだ。違うのは素敵なことだ。

少なくとも、すぐに排除したり不快に思うものでもないはずなんだ。

「異」を受け入れる姿勢は、英語だけではなく世界を大きく広げる。

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