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私が絵を描く動機について(加筆修正版)

【これは、2017年の個展の際に書いたことばの加筆修正版です。はじめて私の作品を見てくださる方への、自己紹介文です】


私は、一見するといわゆる“カワイイ”とされる表現で、絵を描いています。
大きなおめめがキラキラ、ウエーブした長い髪、やさしいほほえみ。

でも、少女漫画や夢のようにかわいい雰囲気が特別好きというわけではありません。
特別に好きなものはホラー映画とアクション映画、クラシック音楽、お酒とおつまみ、推し(某男性アイドルさん)、それからすべての犬。そんな人間です。

私が描きたいのは、私の身のまわりの世界や、そこに存在する、優しくて大きな、私を守ってくれる存在の“写実絵画”です。

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私は、幼い頃から、いわゆる "写実的" と呼ばれる絵画にとても惹かれていました。
理由は、"リアルだから"。見たままの現実をそのまま描写できる技術に憧れていたし、自分の生きるこの世界を探っているという実感があったから。愚直に、真摯に表現したいと思い、人物画や静物画を描いていました。
その姿勢は受験絵画の傾向にぴったりはまり、絵について深く考えることなくスルッと現役で美大に入れてしまい、大学生活が始まりました。
モデルや静物を、描く。描く。描く。肌の色味や質感を追うのはとても楽しくて、学生生活は充実していました。
でも、自由課題が増えるにしたがって、モチーフ選びに苦戦するようになっていきました。
大学2年生のとき、ある教授に言われました。
「君にとってのリアルって、なに?」
えっ。
見えているままに描いて、それを鑑賞者と共有できれば、自分はリアルな絵を描いている、世界を正しく捉えていると言える、そう思っていました。
でも、よく考えてみると、私、人物画を描くときくらいしかこんなにまじまじと人間を観察したりしない。静物画といえば葡萄だと思ってモチーフにしてきたから、皮の質感は上手に描けるけど、そもそも、葡萄って、いままで数えるほどしか食べたことない…。
私にとってのリアルな見え方、リアルなモチーフって何だろう?
そもそもなぜ、私は絵を描いているのだろう?何を描きたいのだろう?
自問自答を繰り返していくと、幼い頃からの体験、あまりにも当たり前すぎて無意識のうちにやっていたことが、絵を描く動機になっていることに気づきました。

幼い頃から、私は強い近視でした。小学一年生の時に眼鏡を作ってもらいましたが、田舎の小学校だったので、眼鏡をかけていると珍しがられ、こてんぱんにからかわれてしまいました。それがとても嫌で、席は常に一番前を希望し、休み時間はもちろん、授業中でさえも裸眼で過ごしていました。
裸眼で過ごすということは、顔や表情をはっきりと見ることができないまま、人とコミュニケーションを取らなければならないということ。
私はそのためのヒントを、たまたま、少女漫画に求めました。

母の本棚には、きれいで、うつくしい絵の本がたくさん詰まっていて、いつもそれを夢中で見ていました。
手元の紙にはピントが合うから、容易に感情を読み取ることができて、あの頃はとにかく漫画に夢中でした。
その多くは、大島弓子作品です。
子どもには難しい話も多かったけれど、"こういう感情のときに、人はこういう顔をする"ということを読みながら学びました。
ぼんやりとしか見えない実際の人間の顔よりも、はっきりと見える漫画の人間の顔の方が、わたしにとってはずっと"リアル"なものだったのです。
実際に人間と話すときは、ぼんやりと見える背丈や服装(色の情報)、声、それから少女漫画の顔(表情は、動きや声色によって判断)。これらをレイヤーのように重ね、コミュニケーションを取っていました。
当時〜12歳ごろまでは、自分自身の表情の作り方も漫画を真似たものだったから、側から見たら、へんだったかもしれない。漫画のようににっこりと口角を上げて笑えているつもりだったし、あははと笑うと口が逆三角のかたちになっていると思っていました。「目が合っているようで合っていない気がする」と友だちに言われたことがありましたが、"目があるべき場所"を見ていたのだから、そう思うのは当たり前でしょう。
もちろん、自分に向けられた悪意にも鈍感でした。悪口を言われた記憶もないし、いじめられた記憶もないけれど、少女漫画のような動きかたをしていたし、もしかしたら陰口とか、言われていたのかも?でも、まったく記憶にないのです。誰かが遠くでこっちを見ていても、見えないから。

12歳、中学生になるときに、コンタクトレンズを買ってもらいました。
はじめてレンズを着けたとき、そのときの衝撃ったら、ありませんでした。
壁が、遠い。下を見ると、足が、床が遠い。
人の顔って、手って肘って膝って、ぼこぼこしている。うそ、顔にも毛が生えてるのおおお。

絵を学ぶために遠くの中学校に入学し、友人や生活スタイルが一変したのもあって、私の記憶は、中学入学以前と、それ以降でぱっきりと分断されています。

コンタクトレンズをしてからは、ものの見え方が、まったく変わりました。
少女漫画とは違う、実在する人間が、どうやって表情を変えているのか。感情が変わるごとにパッ、パッと変わるわけじゃなくて、なめらか。感情の移り変わりも、とてもなめらか。
少女漫画の人間が怒っていたり泣いていたりするのはとてもきれいだけれど、実在する人間の感情の発露のしかたは、ちょっとグロテスク。
美人と呼ばれる顔のパーツの具合について、少しずつ分かってきたり。(これについては、いまでも自信はない)

今年は33歳になる年。現実を見られる道具を手に入れて、21年経ちました。
人間や動物、ものの質感については確実に理解が進んでいます。
コンタクトレンズを取ると、いつでも幼少期の自分に戻れる…と言いたいところですが、当時の記憶が、現実の記憶に上書きされていくのを感じています。
ものとの距離感がなく、色が混ざり合った世界。人間の顔はみなうつくしく、感情は清らか。優しい父と母がそばにいて、ちいさくてやわらかい弟がいて、自分は愛されている。
それはとてもしあわせな記憶です。
あの頃は、自分にとって安心できる、うつくしくてつよくて大きなものに守られている実感がありました。
私は絵を描くときにこそ、そんなふうに必死で世界を探っていた、子どもの頃の自分に戻れるのです。

私が絵を描く理由は、かわいいものが好きだから、かわいい女の子を描きたいからではありません。
ただ、幼い頃の視界や感覚を、再現しようと試みている。
幼い頃に頼りにしていた "世界を探る眼鏡" が、少女漫画だった、ただそれだけ。
もし母の本棚にあったのが北斗の拳だったら、私は原先生の絵柄で作品を制作していたはずです。

画面に立ち現れてくるのは、あの頃見えていた世界、見ようとしていた世界です。うつくしく優しいものだけを見て、この先ずっと幸せでいられると無条件に信じているあの頃の自分、そしてこれからもそんなふうに生きていきたいと願う自分。それは祈りにも似た感覚です。
私が描く人物像は、あの頃感じていた、うつくしくてつよくて大きな存在であってほしい。だから、私が描く人物像はうつくしいし、つよいし、大きい。そして、あの頃の世界のように、優しくてしずかだ。
それがうまく画面に立ち現れたときに私は、自分の根底にあたたかくながれている空気をじょうずに吸うことができるのです。


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