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幼少期の思い出-2- | 5歳から9歳まで

ああ、またか。

白い霧に包まれたように世界がぼんやりしている。現実感がなく、静かだ。
遠くまで見渡せないが、この道は家の近所の砂利道だろう。
それが夢だったのか、現実だったのか、よく思い出せない。しかしはっきり覚えている。

また繰り返すんだ。

そう思った。この景色を、感覚を、前も経験したのだ。覚えてないが。
酷く、投げやりで、嫌な気持ちだった。

正直に言うが、スピリチュアルと言われるものが私はあまり好きではない。
それを特別なもののように扱って自分は他と違うと考えているように見える感じがちょっと苦手だ。大体「疲れてるからそう見えた」で片付くと思っている。
それでも主観的な私の話を書くとスピリチュアルっぽい文章は多々出ると思う。
不快感を与える場合はごめんなさい。


当時の私が不思議だったことは、いつも私の記憶には私の後頭部が映っていることだった。
当たり前だが目は頭の前面についていて、私のことが見えるわけがない。そんなことは分かっている。
今見えているものと1秒前の記憶ではカメラの位置が変わってしまうのだ。
意識して目から見た記憶を思い出そうと頑張れば数秒くらいは頭の中で再現できる。
しかし、ただ思い出そうとするといつもその中に私がいる。 声も遠く、あまり聞こえない。

数秒前のことも分からなくなっていることに疑問を覚え始めたのは5歳くらいの頃だった。

引っ越し先は母の実家の近く、候補の家が2つあった。
「はーちゃんはどっちに住みたい?」と聞かれた。
私は普段わがままを言ったり、迷惑をかけることをしないようにしている。
だから母は私が真剣に頼んだらそれを聞いてくれる。
「絶対にお庭のあるお家よ」

しかし、お庭のあるお家には住めなかった。私には何の報告も、理由も提示されず、もう片方の家に引っ越すことになった。
ショックだった。

そのうち幼稚園に行くことになった。
幼稚園の見学で母が先生と話している間、小さい校庭を歩いてみた。
私と同じ年頃の女の子が話しかけてきて、小高い山みたいな場所に連れて行ってくれた。
アニメの赤毛のアンみたいだなとちょっと思ったけど、周りはビルだらけで緑も少なく、大通りが近いので車の音がうるさく全然素敵じゃない。
「ほら、タバコ」
彼女は茂みから足でタバコの吸い殻を蹴っ飛ばして私に見せてくれた。
「この幼稚園、タバコ園て呼ばれてるの。親たちがその辺りにタバコを投げ捨てて誰も掃除しないから、タバコだらけなのよ」
軽蔑したような顔で笑う少女を、クールだなぁと思った。

幼稚園での最初の授業は「顔を描いてみましょう」だった。
先生が三角を描け、と指示する。
私は人間の顔は三角じゃないだろと思ったので丸を描いた。
その後も、目は楕円の中に丸を、口は四角を描けと指示が出されるが、全て無視した。
絵を提出すると先生は怖い顔で「指示通りに出来ていないから、やり直しなさい」と言った。
私は必死で弁明した。人の顔は三角ではないことを。目は楕円なんてアバウトなものではないことを。あなたの頭は三角なんですか?という具合に。
「先生の言うことを聞けない子は休み時間はなしです。言う通りに描くまでそこで描き続けなさい」
最終的に指示通り描いたかは覚えていないが、この幼稚園で休みを取ることはあまりできなかった。
いつもみんなが遊んでいるのを教室から眺めていた。

時には「先生の言うこともちゃんとやって、それ以上の物を作り上げた。これは自信作だ」と持っていったものも、指示通りじゃないと言われてボツになった。
お題はトイレットペーパーの芯を使って工作しましょうだったと思う。
私は芯を切り抜いて四角をたくさん作り、小さな箱を組み立て、その中に椅子や机やテレビを作った。
何が指示通りじゃないのだ。何時間かかったと思ってんだ。
やる気は完全に失われた。

発表会での舞台の準備もあった。台本はくるみ割り人形で、私はすぐさま本屋で絵本を立ち読みした。素敵な話だ。
私は主人公の女の子役になり、絵本のポーズ通りに見えるよう徹底して練習した。ある場面で、先生はしゃがめと言うが、絵本では片足を伸ばし、尻餅をついている。しゃがむなんて見た目も美しくない。私は先生には従わなかった。
風邪で幼稚園を休んだ翌日、私は木Aの役になっていた。もちろん説明なんてない。理由なんて教えてくれない。
新しい主人公はちゃんとしゃがんでいる。先生はにっこにこだ。
母に役が木Aに変わったと伝えると、悲しそうな顔をして「そう」と言った。母は引っ越してから口数が減っていた。

当時はセーラームーンごっこが流行っていて、私は小さくて可愛い子になりたくていつも「ちびうさ」になりたい!と言っていた。
「はーちゃんは大きいし、可愛くないのに変!」と周りの子たちに言われた。なってもいいけど出てこないで。今日は出番がないからそこに座っててと指示された。
出番があったことは1度もなく、同じように出番のない子たちといつも座ってセーラームンごっこを眺めた。それでも今私はちびうさだ。気分が良かった。
私はかなり背が高く体格の良い子供だった。それに肌の色もチョコレートみたいだった。肌がサメのようにボツボツして、荒れているのも気になった。
自分にかわいい要素が1つもないことも、母や周りの大人が私のことを「かわいくない」と言うのも分かっていた。
だから、想像の中だけでもかわいくなりたかった。

私は徐々に朝起きられなくなっていった。
涙が顔に染みるように流れ続けてぐったりしていた。母は、行け!とか、何かあったの?とか、特に何か言うことはなかった。
どちらかというと、行きたくないのは分かると彼女も思ってくれているように感じた。
しかし母も仕事をしていたのでギリギリの時間になると、私を引きずって自転車の後ろに乗せて幼稚園に強制輸送した。
1年も経たず幼稚園は終わり、次は小学校に行くことになった。

「小学校の入学式、どんな服を着る?」とまた母は私に尋ねた。
当時私はヒッピーってめっちゃかっこいい!と思っていた。ヒッピーは旧来の価値観に対抗する集団だ。文明を嫌い、自然の生活をする。
ヒッピーをテーマに服を選んでいざ入学式へ向かった。

…いや、母を恨んだよね。止めろよと初めて思った。
みんな子供用のスーツを着て、型にはめたように同じ格好をしている。ヒッピーは格好いいが、彼らだって村を作って徒党を組んで生活している。仲間がいない対抗はただの孤独だ。ああ、帰りたい…。
教室では幼稚園で見た子たちよりも、同級生が小さく見えた。というか何人かギャン泣きしている。赤ちゃんみたいだ。大丈夫なの?

「みなさーん、こーんーにーちーはー」
えらい間延びした喋り方をした大人が出てきて挨拶する。先生らしい。
なんかもう消えたいな、と思った。

私の6歳から9歳までの生活は、朝から昼過ぎまで小学校に行き、その後は17時まで児童館に行く。19時過ぎに母と弟が帰宅するのでそれまで自由行動だ。
土日は祖母も含めた家族で終日教会に行く。

当時のことを振り返ると、はっきりと記憶が明暗に分かれている。本当に同じ人物なのか自分で疑いたくなる。
先に思い出したのは楽しい記憶だったので、児童館とその後の自由時間の話しをまずしよう。

児童館では児童館を抜け出していつも探検していた。家と家の隙間に潜り、塀を越え、たまにはビルとビルの間をジャンプして渡り、水道管をよじ登り、工事現場をすり抜けて色々なものを見つけた。
大きくて頂上まで登れる立派な琵琶の木、ブルーベリーの群生地、ビルとビルの間にある謎の洞窟。巨大な木の根のブランコ。
図書スペースで植物図鑑を調べ、アロエで火傷薬を作ったり、調合と言っては適当な草をすりつぶして遊んでいた。
色々な遊びも覚えた。トランプや将棋、囲碁、ドンジャラ、ドミノ、卓球、Sケン…遊具には恵まれていた。
また、漫画を初めて読んだのは児童館でだった。図書スペースにらんま1/2の33巻が床に落ちていて拾って読んだ。世の中にはこんな面白いものがあるのかとびっくりした。
鳥山明の画集も幾らでも眺められてすごいと思った。

学校から帰った自由時間には、テレビを見たり絵を描いたりしていた。
名探偵コナンやポケットモンスターなど、アニメ黄金期と呼ばれたその時期のアニメにもドハマりし、なるべく全てのアニメをビデオに録画してコマ送りにして模写したり、絵コンテにしたりしていた。ビデオテープが再生できなくなるほどボロボロになるまで使い倒した。

楽しかった。本当に。
それでも同じ時期、私は週に1、2回は胸が苦しくなって息ができず人目のつかないところまで何とか移動して気絶することを繰り返していた。
舌の皮に丸く穴があいた。喘息のような咳が常に止まらず、アトピーのような肌荒れがどんどん酷くなり、乾燥して血まみれだった。
腕を抑えると自分でも分かるくらい酷い不整脈だった。体温は35.5度を超えることはなく、体はいつも冷蔵庫のように冷たかった。毎日のように嘔吐していた。

最初、母は病院に連れて行ってくれた。
「ストレスか、栄養失調ですね」と医師が言うたびに母の顔が怖くなった。
診察が終わると、母は私の腕を捻り上げて路地裏に連れて行った。
「私にっ」叩かれた。「恥をっ」叩かれる。「かかせて」腕を振り上げる。「楽しいのか」蹴られた。
「病気でもないくせに!どうでもいいことで私の時間とお金を使わせないで!」そうして母は歩き始める。
ハイヒールのカツカツカツという音がやけに大きく聞こえた。私は後ろをついていく。
当時の母の口癖は「誰に迷惑をかけてもいいけど、私にはかけるな」だった。

家には児童館でもらってきたハムスターが2匹いた。
彼らは母が帰ってくる音が聞こえると天変地異でも来るかのように鳴き叫んだ。
玄関が開くと鳴き声はピタッと止み、それぞれ隠れる。素早い動きだった。天変地異の到着だ。
母は「飼い主様が帰ってきたのにその態度は何なんだよ」と、ハムスターのカゴを開け、彼らが隠れている家の屋根の部分を外す。ハムスターたちは震えていた。
首根っこを掴んで母はハムスターを引っ張りだす。今思い返すと、それは進撃の巨人で巨人が人間を食べるポーズにそっくりだった。
ハムスターは再びキーキーキーッと目を剥き出しにして叫ぶ。断末魔の叫びのようだ。母は舌打ちをしてカゴに戻した。
何故か飽きもせず毎日それを繰り返していた。母は動物に好かれたかったのかもしれない。
しかし、見ている限り彼女はあらゆる動物に嫌われていた。

ハムスターが終わると今度は私の番だ。
何をしていても難癖をつけられる。勉強をしていれば、家事もしないのかと言われ、家事を手伝えば勉強は余裕ですかと嫌味を言われる。
夕飯の席はいつもお通夜みたいだった。テレビはいつもついていたが、それを見て笑うと「何がそんなに面白いわけ」と冷たく言われた。

当時、学校の記憶がないが、友達が出来ないことについて悩んでいたことは覚えている。
学校に入って「友達100人できるかな」の歌を聞いて、友達100人作りたいと思ったのだが何故か人に避けられる。
「お母さん、どうしたら友達ってできるの?」と聞くと「一緒にいれば勝手に友達になるんじゃないの、子供なんだから」と返ってきた。

輪を見つけると入ってみる。しかし、私が入るとみんな解散してしまう。
プール教室に行ったら友達が出来たという話を耳にすればプール教室に行ってみた。しかし初回で嫌われる。嫌味を言われる。「あいつ学校で嫌われてるんだぜ」そんな声が聞こえた。
プール教室は自由に泳げないから楽しくなかったし苦しかった。人にも嫌われて散々だった。
母もそんな私にイライラしていた。
「友達作るために学校行ってんじゃねーだろ、勉強しに行ってんだろ」と壁を叩いた。異議ありと思ったがうまく言葉にできなかった。

たまに、放課後遊ぼうよとか、今度のお誕生日会来てよとか誘ってもらえることがあった。
でも放課後は児童館だし、週末は教会だ…。誰も声をかけてくれなくなった頃、私のあだ名は「アーメン」になった。

ある時、児童館で一緒の子のお母さんが、はーちゃんの誕生日会をしようと提案した。
学校で声をかけたが全員に断られた。参加者は児童館のそのお母さんの息子と、息子が助けを求めた児童館OBのお兄さんの2人だ。
母はケーキやご馳走を作った。うちに来てくれるお礼のプレゼントも一緒に選んでくれた。
2人の男の子は本当に嫌そうにうちに来た。ずっと無言で早く帰りたそうだった。ケーキを素早く食べると「もう帰ります」と言って帰っていった。
料理が大量に残った。
母は「あーあ」と言った。冷たい声だった。2度と誕生日会は開かれなかった。

児童館は楽しかったが、私は別に好かれていたわけではなかった。
児童館にはピアノがあって、その音の美しさにすっかり魅了されたが、「バイキン」と言われてピアノに触らせてもらえなかった。
無理やり弾こうとすると、男子から本気で突き飛ばされた。その辺の椅子にぶつかって痛かった。
「お前が触ったらピアノが汚れる」と言われた言葉の響きは、何だか重かった。

集団で遊ぶ時も、私に触れることをみんな嫌がった。鬼ごっこの時などはよくフードを引っ張られて、何度か首がしまって倒れた。
みんな私の肌に触りたくないのだ。

児童館にはちょっとおかしい感じの年上の男の子がいて、よく塀の奥の方に連れて行かれてパンツを脱げと言われた。
私以外の数人の女の子も並ばされてみんな股間を触られていた。

浮浪者もあちこちにいて、子供が性的被害に遭った話はよく耳に入ってきた。
私も汚いおじさんに追いかけられたことがある。
走って逃げたが、おじさんに腕を引っ張られて目があった際に「きたねー子供だな!間違えたわ」と唾を吐きかけられた。

祖父母と風呂に入ることもたまにあったが、祖父母は私の股間に対して何だかすごく執着していると感じた。
汚い、汚いと何度も繰り返した。だからちゃんと拭かないといけないのだと、そこだけ念入りにずっと拭く。奥まで覗き込みながら、丁寧に丁寧に。
それが何だか怖くて気持ち悪かった。
幼少期の性との関わりは、混沌としたものだった。

教会でも私はうまくやっていけなかった。
いつも聖書の一節を元にみんなの体験をシェアする時間があるのだが、道理が通ってないことがとても気になった。
うまく説明できないが、昨日は八百屋に行ってトマトがいつもより安くて神の御心を感じましたみたいな大人の話しに「はあ?」と思うというか…素人の神様話が腑に落ちなくて、信用できない集団だと思うことが多かったのだ。

しかし私は神を信じていた。信じざるを得なかった。
「神様はいないんですよね。いるなら私の願いを叶えてください。この竹とんぼを私が拾いに行けないくらい遠くまで飛ばしてくれたら私はあなたを信じてみます」
アーメンのポーズを取って神に聞いてみた。
竹とんぼを飛ばすと、それまで全く飛ばなかったのに拾えない程遠くまで飛んでいく。
台風の日、いたずら心に「神様はいませんよね。いたら私を風で飛ばしてみて下さい」とアーメンのポーズを取った。
風がブワッと吹いて傘に集まり、体が浮いた。少しだけど。そして進んだ。

集会の時には大きなステンドグラスとパイプオルガンのある部屋で讃美歌を聞いた。光がステンドグラスから散って、目が見えないくらい辺りが真っ白に光って見えた。
祈りはあるのだ、というように。

私の当時の結論は「神のようなものは在る、けど教会に集まる大人の話は嘘だ」ということだった。
そんな態度だったので、何度も反省室みたいなところで説教された。
祈りも聖書も嫌いじゃなかった。でも、教会は嫌いだった。
私はどこに行っても嫌われる、嫌な子どもだった。

小学校3年生が終わり児童館が終わった。
周りも大人になっていき、私は分かりやすく虐められるようになっていった。
…いや、もう結構虐められてるんじゃね?とは思うけれど、状況はさらに過酷になっていった。

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