Naked Desire〜姫君たちの野望

第一章 心の壁−7

「クラウス、起きないと遅刻するよ。さっさと支度しな」
クラウスと呼ばれた青年は、母親の罵声を目覚まし代わりにして、自室で目が覚めた。
う、うーんと彼はベッドの上で背伸びをすると、壁に掛かっているデジタル時計を見た。
時刻は、朝8時に近い。しまった、また寝過ごした。急がないと遅刻する。
ベッドから飛び起きて洗顔を済ませ 、身支度をする。今日の格好は、白地の丸首シャツと青色のデニムパンツだ。早足でダイニングに向かうと、母は一人で、フランスパンのサンドイッチをかじっている。
「父さんは?」
「とっくに会社に行ったよ。お前も早く食べな」
彼は椅子に座るやいなや、素早くサンドイッチを口に入れる。
「そんなにがっつくんじゃいよ、いい年こいてみっともない」
母は渋面で、彼の食事マナーを注意する。
「そんなんだから、お前は就職できないんだよ」
サンドイッチをかじりながら、クラウスは心の中で(ああうっさいな、このクソばばぁ)
と毒づく。
冷めて温くなったコーヒーで、母のお手製サンドイッチを口に流し込むと、クラウスはすっくと立ち上がる。
「ごちそうさま。ではいってきます」
と母に告げると
「クラウス、待ちな!」
と、母が呼び止める。
「あんだ、うっせぇな」
「親に向かって、なんて言い草だい! 呼ばれたら、黙って素直にこっちに来るもんだよ!」
母親は、そう言いながら掌を使って手招きする。
「ひっぱたくんじゃないだろうな?」
「バカをいうもんじゃないよ! あたしゃ、頬をひっぱたかれないと人様の言うことを聞かない、そんな情けない20歳過ぎの成人を、息子に持った覚えはないよ! いいからさっさとこっちに来な!」
(今まで、人をさんざんひっぱたいくせによういうわ)と思いながら、遅刻するから早くしろ、とぶつくさ言うクラウスに、母は彼に「背中を見せな!」と、命令する。
「背中、シャツの裾がでているよ、みっともない」
「いいじゃねえか、そんなの。パーカーを羽織るから問題ないよ」
「またそういう横着を言う。お前、エアバイクで通勤するだろうが。風でパーカーがあおられて、人様にそんなみっともない格好を見られて、恥ずかしいと思わないのかい? そんなんだから、あんたはいつまでたっても、友達も彼女もできないんだよ!」
「最後の『友達も彼女も』は余計だ」
クラウスは、ムッとした口調で母親に言い返す。
「クラウス! 人に注意されて、そんなことを言うもんじゃないよ! お父さんもお母さんも、お前が心配で仕方がないんだよ!」
「ああわかったよ。背中を直しゃいいんだろ、直しゃ」
クラウスは母に指摘されたとおり、シャツの裾を直すと、青い無地のパーカーを羽織った。
「じゃあ、いってくるから」
「行っておいで、気をつけて仕事すんだよ!」
という母親の言葉を背中に受けたクラウスは、エアバイクにまたがり出勤した。
エアバイクを運転しながら、彼は思い出したくない過去を振り返っていた。
母親に怒鳴られながら家を出た青年、クラウス・ヴァイザー。
首都グラーツ在住で今年24歳になる彼の両親は、下位中流階層所属の市民だ。だが当人は就職活動に失敗し、今はカフェチェーンでアルバイト店員をしている。もちろん、今の仕事は望んだのではなく、生活のために仕方がなくやっている。そのため、将来自分は、貧困階層に転落するのではないかという、ぼんやりとした不安を絶えず抱いている。
彼は、幼児の頃から集団に溶け込めない性格だった。
「他人と上手に会話できない」
ただそれだけの理由で、彼はクラスメート達からはバカにされ、いじめの対象にされた。
毎日誰かしらからいじめられ、泣かされていた。
彼は自分のいじめを、泣きながら担任に訴えても、教員たちには取り合ってくれもらえなかった。それどころか逆に「男なら泣くな!」と叱責された。校内で彼に味方してくれる大人は、彼には存在しなかった。
両親も彼の訴えに耳を貸さず、逆にお前がしっかりしないからそうなるのだと言われた。
中学生になったクラウスは、校内では一人で過ごすことが多かった。
昼休みは食事後学校の図書館で過ごすのが習慣になった。放課後は下校途中にある大きな本屋で、好きな分野の本を立ち読みした。時には少ない小遣いをやりくりし、通学経路の途中にある美術館で、夕食間際まで入り浸る。書店と図書館、そして美術館。クラウスはそれらの場所で、一人きりだが楽しい時を過ごした。
幸か不幸か、一緒に美術館や本屋に行く知人友人が、彼にはいなかった。また本人も、自分の趣味を周囲に話さなかった。
もし彼に、趣味を同じくする友だちができたら、彼の人生は今よりはマシな状況になっていただろう。だが無情にも彼の暮らす現実は、彼の望んだ展開にはならなかった。

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