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ちょっとダメなところが 魅力なんだよね

友達にするのなら、紫式部よりも清少納言がいい、という記事を書いたのは先月のこと。

清少納言と友達になったら楽しかろう、と思ったきっかけは、『むかし・あけぼの』という小説なのだが、先日の記事をきっかけに、久しぶりに読み返してみた。

読んでみれば、随分と印象が違って驚いた。
清少納言は、以前読んだ時の印象よりも、随分と「こまったちゃん」だった。今風に言えば「イタイ人」という表現が近いだろうか。

高貴な方たちを知識でやりこめたり、ちょっと気の利いたことを言って喝采を受けて喜んだりする姿が、思っていた以上に繰り返し繰り返し登場するので、「いやいや、うん、すごかったね、分かった、分かったよ、うん」と、年下の友達をなだめるような気持ちになっていた。でも、最初にこの本を読んだ頃は、清少納言に共感して、同じようにいい気分になっていた気がする。私自身、そういう「注目を浴びて褒められるのが嬉しい」という気持ちを持ち合わせていたんだろうなぁ。清少納言も、私も、若くてイタかったなぁ。

そして、圧倒的に魅力あふれる存在だった定子様は、思慮深い大人の姿だと記憶していたが、記憶よりも幼く、清純で曇りのない瑞々しい存在だと感じた。権力者たちの思惑に翻弄されてどうにもできない姿は、脆さすらあった。もちろん魅力的な存在であることには変わりはないのだが、非の打ちどころのない姿であろうとする様子が痛々しいくらいにも思えるのだった。

そして、何より強く伝わってきたのは、作者である田辺聖子さんの、清少納言への愛情深さだった。

この小説は、枕草子の現代語訳ではない。田辺聖子さんが枕草子を読み解いて、清少納言の心のうちや人物像を想像しながら紡いだ物語。
小説の中では、清少納言のワガママさが生き生きと綴られている。自分が一番大事にされないと拗ねる姿。機知に富むやりとりを解さない人への容赦のないワルクチ。都以外の暮らしや、貴族以外の暮らしへの見下すような視線。

ちょっと辟易する程のワガママなのだけれど、作者が、そんな清少納言の「どうしようもなさ」を、とても愛していることが伝わってきた。
ワガママだけれどいい人、なんて、かばったりしない。どうしようもなくワガママで、困った人で、でも、人って、どうしようもないからこそ魅力的なのよね、と言われているような気がする。

人は弱いし、拙いし、無力だ。だからこそ、必死に強く、大きく見せようとしたり、誰かをやりこめようとしたりする。そういう、ダメなところこそが、人間くさく、それこそが、人の魅力なんだと思う。
確かに、「できないこと」こそが、その人らしさだし、その人の魅力だよなぁ、と、私も最近になって考えるようになった。

田辺聖子さんが、清少納言のワガママさを責め立てようとしたのではなく、そのワガママさこそを愛していたんだなぁ、と思えるのは、人生の最後に、とびっきりのパートナーを用意したから。
最初に読んだ時には、さして印象にも残らなかったその人のことを、今回、誰よりも魅力的に描いていることに気づいた。清少納言がボーイフレンドとして自慢していた上達部たち(身分が高く、姿かたちも美しい)よりも、ずっと人としての味わいの深い人。お互いに肩肘張ることなく、長く、無理なく、寄り添える存在。(「カモカのおっちゃん」を思い出す人柄だなぁ、と気づく。)

資料にも名前が残っている人物ではあるけれど、逆に言えば資料には名前しか残っていないので、人物像は田辺聖子さんが創り上げたものだと言ってよいと思う。「女性なんて、家族以外には顔を見せずに、御簾の奥に入ればよい」と言われていた時代に、働く女性として表に立った人の人生は、宮勤めを終えた後も心豊かであって欲しいという願いでもあるのかもしれない。

そして、そういうパートナーと出会えたのは、ダメなところがあったからだと、思うのだ。ダメなところがあるからこそ、人と人は惹かれあうのだろう。

ちっぽけで弱くてどうしようもない「人間」同士だからこそ、そこに物語が生まれるのかもしれないなぁ。

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