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子ども達にとってオンライン授業は文化の域に入っている

先日、zoomで小学低学年向けに授業を行いました。

きっかけは、臨時休校の子ども達向けに、無料オンライン授業を提供しませんか?という告知でした。

ちょうど講師を募集していたので、即座に応募しました。

授業の生徒さんは20名ほど。定員満席でした。

授業開始前は、オンライン授業がきちんと授業ができるかしら、ちょっぴり不安でした。

というのも、直接会って授業をすることはあっても、オンラインでは初めてだったからです。

実際授業をやってみて、本当に大丈夫でした。杞憂に過ぎませんでした。

うまくいった理由の一つは、子ども達のほうがPCに文化的に慣れていたからです。

文化的に、と書いた理由は、PC操作ができるという意味だけではなく、オンライン上で、PCを介して、向こう側の人と話すのは「当たり前であり、むしろ好意的に関われる」というスタイルが、すでに整っていたからです。

わたしもzoomは日常的に使っていたので、zoomの利用には抵抗はありませんでした。

自分自身、zoomは当たり前の様に使える、と思っていました。そう「使える」というのは「手段として使いこなす」というハンディが少しある感覚が「使える」という言葉には含まれている気がします。

一方、子ども達は違っていました。

きっと「zoomを使える」とは、彼らは言わないと思います。

「zoomは使える」ものではなく、空気のようなものであり、PCをつけてちゃちゃっと操作するだけのもの、という感覚であり、いわゆる「使える」という感覚を超えていたのです。

この感覚に触れたとき、わたしのなかで、気づきがありました。

わたしにとって、普段気軽に使っていると思っていたzoomも、やはり「手段」として使っている節は強かったのです。「zoomを使える」という捉え方です。

わたしの心のどこかでは、まだ「会って話す」というベストな手段を引きずりながらも、便利だからオンライン上で話す、つまり「zoomを使っている」という感覚がありました。

40代のわたしにとっては、「zoom<会う」だけど、便利だから「zoom≒会う」

一方、子ども達にとっては、人と会うのもオンライン上で話すのも一緒。つまり、疑う余地も無く「zoom=会う」なのです。

わたしの中にある、一抹の不安、オンラインでは「見えない何かが欠けてコミュニケーションをするかも知れない」という、ちょっとした恐れが、子ども達には全くなかったのです。

zoomをはじめとする、オンライン会議ツールが日常的に文化的に使われ始めていることに、子ども達を通して気づきましたし、そういう時代なんだと改めて感じました。

これは今当たり前にある、オンライン授業やセミナーを超えて、もっともっとオンライン上でできる可能性が、きっと私の予想をはるかに超えて、もっともっと素晴らしい斬新なアイディアが実現化されていく、そんな予兆が今なんだと思います。

わたしの想像もつかない未来が楽しみです。



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